2014年01月04日
魂の旅 その1
『もしあなたの魂が生まれ変わる前からあなたのDNAを選び、
あなたの両親を選んでいたのだとしたら。
そしてあなたのその魂が運命の働きとなり、
そしてまたあなたを導く守護霊となっていたとしたら。
そんな見方をしたときに、あなたの人生はこれまでとは全く違う姿を見せはじめ、思いがけない輝きを放ちはじめる』
私は最近「魂」についてよく考えることが多くなりました。
講演会でもそのテーマについて、
また自分自身の過去についても毎回少しずつ触れています。
私が現在開設しています「アカシックオラクルコース」にて、
皆さんにいちばん知っていただきたいテーマは、
自らのアカシックレコードにアクセスしながら、
自分の魂が生前に決めてきた「ライフパーパス」を知っていただくことです。
私たちは皆、個々が生まれてくる前に、
あらかじめどのようなことを経験したいか決めてくる。
これは魂に関する様々な文献を照査しても明らかで、否定できないことのようです。
私自身のライフパーパスは?
これは今までに自分なりにいろんなことが理解できましたが、
もう少しそれを追求してみたいと思います。
私は昨年7月に60才を迎えました。
自分の人生をもう一度振り返ってみながら、
さらに細かい気づきに導かれることを意図しています。
今から皆さんにお伝えする内容から、
ところどころよく似た経験をお持ちの方が必ずおられると思います。
同じ魂のグループの人たち(Soul Group)との
巡り合いも期待できるかもしれません。
ある本によると、
人生の後半で同じソールグループの人々との出会いが盛んに起きるとあります。
私自身の過去についてこれから何回かに分けて、
このブログでシェアしたいと思います。
一つの出来事に対しても様々なとらえ方がありますが、
できるだけ客観的な見方で進めたいと思います。
三つ子の魂百まで
私を生んでくれた両親に一番感謝したいことは、
自然分娩で私を出産してくれたことです。
おまけに私を受け取ってくれたのは、
白衣姿のお医者さんでもなく、助産婦さんでもありません。
それは父でした。
今の時代では計画的に自然分娩を希望する女性が増えていますし、
私自身も妊娠してそれを選んだ一人です。
しかし、私が生まれた60年前は、
そのような自然分娩ブームでもありませんでした。
当時は産婆さんを呼んで家で出産する女性が多いでした。
私の場合も同じでした。
しかし、私の場合は、まだ産気づいていない母を見て、
産婆さんが昼食に家に帰っている間に私が生まれました。
幸いにも土曜日だったので、父が帰宅しており、
突然産気づいた母から私を受け取るという想定外の分娩となりました。
まったくなんの経験もない父が、私を受け取ってくれたのですが、
私は未熟児でした。
私は産声もあげなければ、三日間ほどまったく鳴き声を上げずに、
乳を吸うこともなかったそうです。
ひょっとすれば、口がきけない子として生まれたか、
あるいはそのまま死んでしまうのではないかとずいぶん親は心配したそうです。
ヒナを暖めるようにして、
新生児の私は母の隣で柳ごうりに入れられていたそうです。
その頃の保育器は、まだまだ完璧なものでなく、
欠陥があり、失明した赤ちゃんが多かったと後になってから母は聴かされました。
あの時病院に送られなかった私はこうして五体満足で育ったかと思うと、
母の直観に感謝です。
私はこのような生命力の弱いスタートを切り、
10才ぐらいまでは病弱で、蚊の鳴くような小さな声の子供でした。
おまけに結核菌をもって生まれました。
戦後少しは経っていましたが、
あの頃結核菌をもって生まれた子供は少なくはなかったのです。
ずっと病院通いでした。
その上私はとても神経質で、
ある時から「小児自立神経失調症」という病名をもらい、
小学校時代は欠席が多く、薬漬けの毎日でした。
性格はどちらかというと聞き分けがいい反面、
変なことにこだわる自我の強さがありました。
幼いころの自分について思い出すと、
小さな体に入っている自分に苛立ちを覚えていたことはたしかです。
幼い自分が感じたことや見ていた夢を今でも覚えています。
記憶を遡ると、ちょうどお座りをし始めたころのことです。
やっと座れるようになった自分の目の前にあった
タンスの取手がいやに大きかったことと、
そして、その取手に必死につかまろうとしたことを覚えています。
三才ぐらいの時に見た夢も今でも鮮明に覚えています。
5才ぐらいの時に私は堺で茶道の先生をしていた叔母から、
茶道の手ほどきを受けました。
ちょうどそのころ、親戚の法事に行ったときに、
そこでいただいたお寿司を私はお箸で掴みきれずに転がしてしまいました。
それを向かい側の席で見ていたあるおばさんがケラケラと笑い出したのです。
行儀作法は自慢だった私は、しくじったことと笑われたことに、
その場で大泣きしました。
そして、なんといっても悔しかったのは、
大の大人が子どものしくじりに笑うということが許せなかったのです。
悔しさに泣くだけではすまされず、
私はそのおばさんを裁くようにやぶにらみして返したのです。
「なんと、恐ろしい子」といわれました。
このような気難しい性格が、
一生を通じて人生を必要以上に難しくしたと今では思っています。
ひとことでいうと変なプライドですね。
私は物心がついたころから動物と通じ合っていました。
そのことは近所でも知られていて、
家の前に捨て犬や猫が箱に入っておかれていることがしばしばありました。
捨てられた動物の面倒を見ることを仕事のようにやっていました。
動物が病気になると、必ずといっていいほど同情してか熱を出していました。
私は「変わっている子」
私は普通の子供ならこだわらないことをとかくこだわる子でした。
母を手こずらせることもよくありました。
外で遊んでいればよいのに、母のそばにぴったりとくっついて、
「私は誰なの?」
「どこから来たの?」
と、彼女のエプロンの裾をひっぱりながらよく困らせたのを覚えています。
「むずかしい子ね」
と母はしょっちゅうそういっていました。
私は姉とはちがい、そんな幼いころから親にとって現在に至るまで、
まったく理解できない部分の多くて、たしかに「むずかしい子」でした。
これは正直に認めます。
生まれながらにして強い感受性と、はっきりした思考があったのです。
そして、人一倍大きな好奇心がこれまでの人生の運び舟となり、
また様々な心身の癒しを必要とする道を選んだように思えます。
それにしても運よく自然出産で生まれてきたことを両親に感謝しています。
私の人生を振り返ってみて、
幼いころにもう一つ大きなイベントが起きました。
それは、6才の時に受けたある予防注射によって引き起こされました。
「初のサイケデリック体験」です。
これについて次回お話します。
あなたの両親を選んでいたのだとしたら。
そしてあなたのその魂が運命の働きとなり、
そしてまたあなたを導く守護霊となっていたとしたら。
そんな見方をしたときに、あなたの人生はこれまでとは全く違う姿を見せはじめ、思いがけない輝きを放ちはじめる』
プラトンが語った神話のイメージより
私は最近「魂」についてよく考えることが多くなりました。
講演会でもそのテーマについて、
また自分自身の過去についても毎回少しずつ触れています。
私が現在開設しています「アカシックオラクルコース」にて、
皆さんにいちばん知っていただきたいテーマは、
自らのアカシックレコードにアクセスしながら、
自分の魂が生前に決めてきた「ライフパーパス」を知っていただくことです。
私たちは皆、個々が生まれてくる前に、
あらかじめどのようなことを経験したいか決めてくる。
これは魂に関する様々な文献を照査しても明らかで、否定できないことのようです。
私自身のライフパーパスは?
これは今までに自分なりにいろんなことが理解できましたが、
もう少しそれを追求してみたいと思います。
私は昨年7月に60才を迎えました。
自分の人生をもう一度振り返ってみながら、
さらに細かい気づきに導かれることを意図しています。
今から皆さんにお伝えする内容から、
ところどころよく似た経験をお持ちの方が必ずおられると思います。
同じ魂のグループの人たち(Soul Group)との
巡り合いも期待できるかもしれません。
ある本によると、
人生の後半で同じソールグループの人々との出会いが盛んに起きるとあります。
私自身の過去についてこれから何回かに分けて、
このブログでシェアしたいと思います。
一つの出来事に対しても様々なとらえ方がありますが、
できるだけ客観的な見方で進めたいと思います。
三つ子の魂百まで
私を生んでくれた両親に一番感謝したいことは、
自然分娩で私を出産してくれたことです。
おまけに私を受け取ってくれたのは、
白衣姿のお医者さんでもなく、助産婦さんでもありません。
それは父でした。
今の時代では計画的に自然分娩を希望する女性が増えていますし、
私自身も妊娠してそれを選んだ一人です。
しかし、私が生まれた60年前は、
そのような自然分娩ブームでもありませんでした。
当時は産婆さんを呼んで家で出産する女性が多いでした。
私の場合も同じでした。
しかし、私の場合は、まだ産気づいていない母を見て、
産婆さんが昼食に家に帰っている間に私が生まれました。
幸いにも土曜日だったので、父が帰宅しており、
突然産気づいた母から私を受け取るという想定外の分娩となりました。
まったくなんの経験もない父が、私を受け取ってくれたのですが、
私は未熟児でした。
私は産声もあげなければ、三日間ほどまったく鳴き声を上げずに、
乳を吸うこともなかったそうです。
ひょっとすれば、口がきけない子として生まれたか、
あるいはそのまま死んでしまうのではないかとずいぶん親は心配したそうです。
ヒナを暖めるようにして、
新生児の私は母の隣で柳ごうりに入れられていたそうです。
その頃の保育器は、まだまだ完璧なものでなく、
欠陥があり、失明した赤ちゃんが多かったと後になってから母は聴かされました。
あの時病院に送られなかった私はこうして五体満足で育ったかと思うと、
母の直観に感謝です。
私はこのような生命力の弱いスタートを切り、
10才ぐらいまでは病弱で、蚊の鳴くような小さな声の子供でした。
おまけに結核菌をもって生まれました。
戦後少しは経っていましたが、
あの頃結核菌をもって生まれた子供は少なくはなかったのです。
ずっと病院通いでした。
その上私はとても神経質で、
ある時から「小児自立神経失調症」という病名をもらい、
小学校時代は欠席が多く、薬漬けの毎日でした。
性格はどちらかというと聞き分けがいい反面、
変なことにこだわる自我の強さがありました。
幼いころの自分について思い出すと、
小さな体に入っている自分に苛立ちを覚えていたことはたしかです。
幼い自分が感じたことや見ていた夢を今でも覚えています。
記憶を遡ると、ちょうどお座りをし始めたころのことです。
やっと座れるようになった自分の目の前にあった
タンスの取手がいやに大きかったことと、
そして、その取手に必死につかまろうとしたことを覚えています。
三才ぐらいの時に見た夢も今でも鮮明に覚えています。
5才ぐらいの時に私は堺で茶道の先生をしていた叔母から、
茶道の手ほどきを受けました。
ちょうどそのころ、親戚の法事に行ったときに、
そこでいただいたお寿司を私はお箸で掴みきれずに転がしてしまいました。
それを向かい側の席で見ていたあるおばさんがケラケラと笑い出したのです。
行儀作法は自慢だった私は、しくじったことと笑われたことに、
その場で大泣きしました。
そして、なんといっても悔しかったのは、
大の大人が子どものしくじりに笑うということが許せなかったのです。
悔しさに泣くだけではすまされず、
私はそのおばさんを裁くようにやぶにらみして返したのです。
「なんと、恐ろしい子」といわれました。
このような気難しい性格が、
一生を通じて人生を必要以上に難しくしたと今では思っています。
ひとことでいうと変なプライドですね。
私は物心がついたころから動物と通じ合っていました。
そのことは近所でも知られていて、
家の前に捨て犬や猫が箱に入っておかれていることがしばしばありました。
捨てられた動物の面倒を見ることを仕事のようにやっていました。
動物が病気になると、必ずといっていいほど同情してか熱を出していました。
私は「変わっている子」
私は普通の子供ならこだわらないことをとかくこだわる子でした。
母を手こずらせることもよくありました。
外で遊んでいればよいのに、母のそばにぴったりとくっついて、
「私は誰なの?」
「どこから来たの?」
と、彼女のエプロンの裾をひっぱりながらよく困らせたのを覚えています。
「むずかしい子ね」
と母はしょっちゅうそういっていました。
私は姉とはちがい、そんな幼いころから親にとって現在に至るまで、
まったく理解できない部分の多くて、たしかに「むずかしい子」でした。
これは正直に認めます。
生まれながらにして強い感受性と、はっきりした思考があったのです。
そして、人一倍大きな好奇心がこれまでの人生の運び舟となり、
また様々な心身の癒しを必要とする道を選んだように思えます。
それにしても運よく自然出産で生まれてきたことを両親に感謝しています。
私の人生を振り返ってみて、
幼いころにもう一つ大きなイベントが起きました。
それは、6才の時に受けたある予防注射によって引き起こされました。
「初のサイケデリック体験」です。
これについて次回お話します。
Posted by 愛知 ソニア at 12:44
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