2007年06月10日
大工の娘
今朝、自分の家を一生懸命、建てている娘の写真が送られてきました。
しんどいけれど、おもしろそう。
自分の住む家は自分で創りたいと思うのは、健康な若者の姿だと喜んでいます。
今年になって「仕事」というものについて真剣に考えてみました。
するとどんどん変化していく感じがします。自分自身も含めて、周りの人たちも変わってきています。
私は昨年まで続いた翻訳中心の仕事から一息というところです。もうある意味で体が受けつけない感じがしました。コンピュータの前に張りついて一日が過ぎるのは、ちょっと違うんじゃないか、って感じるようになったからです。その結果、ブログを書くことも減ってきました。
今しかない仕事、それは多くの人々と出会うこと・・・そう思うんです。
インターネットを通してだけではなく、実際にいろんな人々と関わりをもつことが大切だと気づきました。お互いを理解し、肌で感じ、目を見つめながら語らい、アンマのような素直さで人をハグでできる自分になりたい。
これが私のワークと今、なっています。
だれともハグできる生き方?!
変化を求めても、実際に自分が行動しないと変化は頭の中だけでしか起きません。自分が一番苦手とすること・・・それは私の場合、シャイさ、面倒くささ、どうでもよいと思ってる etc.
すべてを取り除く必要があるんです。
自分が愛する人と同じようにみんなと接することができるのか?
それとも気づかぬうちにエゴに押し流されて付き合うか、離れるか?
関わろうと努力できるか、どうかを試す道場です。
それを生きることと一つ、仕事として一つ。
これを今生でやり遂げなければ、
死んでから自分はきっと後悔するんじゃないかって、
ますます感じるようになってきました。
このようにすべてを捉えるようになると・・・
仕事は家事だってすべて同じような心づかいでやること。
これだけを考えて生きていけば、お金のことを特別考えなくても、
宇宙が援助してくれるので、十分仕事として成り立っていくように、今の波動は設定されているような気がします。
そしてその仕事がどこまで成長するかは、
きっとすべて自分の気持ちの結果としてあらわれるんでしょう。
あたりまえのことのようですが、頭でわかっていてもなかなか大変。
そんなことで、私の今年の仕事としてのチャレンジは、
あまりコンピュータの前で、自分ひとりの世界で夢中になりすぎないことです。
これはまさにサイキックマスタベーションにすぎない。
カメレオンのように機械に張りついて長時間過ごさない!
これが今年の私です。
2007年06月09日
イエス、弟子の足を洗う
イスラエルの旅はキリストのエネルギーを実際に自分の体で感じてみようとスタートした。
旅ではまったく予期せぬことだらけを経験した。なるほど、キリストエネルギーは、期待通りにはやってこない・・・
自分がなぜ、不思議なほど聖書というものを忘れることができないのか?
気がつけばやはり一ヶ月に一度はところどころ読んでみたくなる。
なぜ、自分はイエスという存在に惹かれるのか?
それを直接感じたかった。
歴史が語る架空の人物なのか、実際に存在した人物なのか?
そして、どのようにその存在は超越していたのか?
イエス・キリスト、ブッダ、ムハマド・・・
世界の宗教の始まりとなった偉大な大師たちの中でもキリストは、
ほかのマスターたちとちがった点は何か?
それは、「キリストは弟子たちの足を洗う」という、
聖書の中のキリストの不可解な一つの行動にも顕著に現れていると思う。
「イエス、弟子の足を洗う 第13章1~20」
ヨハネによる福音書
弟子たちの足を洗ってあげたキリスト
Gospel by "1-20 Chapter 13
that washes Jesus and apprentice's feet" John
イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、
また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけでなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。

ゲッセマネの園
オリーブ山の斜面に広がるオリーブ園が
人々の不信仰によって追い詰められたイエス・キリストが
人類の運命をかけて血の汗を流し、
神の前に祈りを捧げたと言われるゲッセマネの園
旅ではまったく予期せぬことだらけを経験した。なるほど、キリストエネルギーは、期待通りにはやってこない・・・
自分がなぜ、不思議なほど聖書というものを忘れることができないのか?
気がつけばやはり一ヶ月に一度はところどころ読んでみたくなる。
なぜ、自分はイエスという存在に惹かれるのか?
それを直接感じたかった。
歴史が語る架空の人物なのか、実際に存在した人物なのか?
そして、どのようにその存在は超越していたのか?
イエス・キリスト、ブッダ、ムハマド・・・
世界の宗教の始まりとなった偉大な大師たちの中でもキリストは、
ほかのマスターたちとちがった点は何か?
それは、「キリストは弟子たちの足を洗う」という、
聖書の中のキリストの不可解な一つの行動にも顕著に現れていると思う。
「イエス、弟子の足を洗う 第13章1~20」
ヨハネによる福音書
弟子たちの足を洗ってあげたキリスト
Gospel by "1-20 Chapter 13
that washes Jesus and apprentice's feet" John
イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、
また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけでなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
ゲッセマネの園
オリーブ山の斜面に広がるオリーブ園が
人々の不信仰によって追い詰められたイエス・キリストが
人類の運命をかけて血の汗を流し、
神の前に祈りを捧げたと言われるゲッセマネの園


