2015年09月18日
神秘体験の裏話
先日私のクンダリーニ体験について短い文章で綴りましたが、
あのあと、ある方からこんなコメントをいただきました。
『ソニアさんは、クンダリーニが最終的に昇華しましたか?
またその前にプラーナが上がる体腱はなさいましたか?
私は知識がないままにプラーナがあがり、その後クンダリーニ昇華し、数年後に光の柱になる体感の後、梵我一如にはなったのですが、余りにも知識がなさ過ぎて、自分の状態があまり良く解っていません。
ヨーガをちゃんとされていた、ソニアさんの体験、体感を、差し支えなければもう少し詳しくブログで教えていただけると嬉しいです。』
この方には、私が書いたあの時の体験は、たった一度の完全昇華で、30年も前のことなので、大まかな記憶しか伝えられなかった、というようなことをお伝えしました。
あの経験以来、何度かクンダリーニをまた経験したいとトライしたものの、あれほどはっきりとした体験はできませんでした。
しかし、その試みは何年か後のことでした。
なぜ引き続き訓練しなかったのか、わけがあります。
ある恐怖心から立ち直る必要があったからです。
あの短い記事を投稿した後、
私が一度電話したあのダンテツさんのウィキペディアに
ちゃんと目を通したところ、
若くしてガス自殺で亡くなられたと書いてあったのに初めて気づいた次第です。
『なるほど』と思いました。
実はヨガを教えてくれていた私の友人も若くして命を絶たれています。
このようなことには触れずにいようかと思っていたのですが、
やはり書いた方がいいのかなと感じました。
むしろこのほうが、お伝えすべきなのです。
私はというと、あのすごい体験後、
数日内に思い出すのも恐ろしい奇妙な出来事に遭遇しています。
私だけではなく家族全員の命も危機一髪のところで助かった事故でした。
どんな事故かは、書くのを控えておきます。
それが起きる前兆として、体外離脱を2度経験しました。
どちらも不動明王のような恐ろしい顔つきの剣を振りかざす者に、
宝箱のようなものを私に開けさすまいとして追いかけまわされました。
般若心経を唱えて、やっとこさ自分の体に戻ることができました。
知識を備えずにただ神秘体験に好奇心を抱くことの恐ろしさを、
いやほど知らしめられました。
なぜ、ふらっと先日クンダリーニの体験談を語ったのでしょうか?
きっとこのことを書くためだったのでしょう。
あの頃、夫は鍼灸学校に通いながら、
夜は井村宏次先生の弟子としてクリニックで働いていました。
井村宏次先生には、私も体外離脱の実験に参加させてもらったりして、
当時お世話になっていました。
先生の紹介であるとき本山博先生に引き合わせてもらいました。
すると私を見るなり本山先生は、
「アストラル体がむき出しになっている。保護しないとだめだよ」
といわれました。
なるほど、どおりで、
体外離脱中に霊的アタックを受けたこともあったわけが納得できました。
それだけではなく、当時は現実でもなにかと辛い経験が重なりました。
先生に教えてもらったイメージトレーニングで、
私のアストラル体は、時間はかかりましたが、徐々に回復しました。
神秘体験は常に私を魅了させるものの、
どこから何が出てくるかわからないジャングルに飛び込む覚悟が必要ですし、
それでも冒険したければ、
知識が豊富なシャーマンなどの導きが必要なことはたしかです。
あのあと、ある方からこんなコメントをいただきました。
『ソニアさんは、クンダリーニが最終的に昇華しましたか?
またその前にプラーナが上がる体腱はなさいましたか?
私は知識がないままにプラーナがあがり、その後クンダリーニ昇華し、数年後に光の柱になる体感の後、梵我一如にはなったのですが、余りにも知識がなさ過ぎて、自分の状態があまり良く解っていません。
ヨーガをちゃんとされていた、ソニアさんの体験、体感を、差し支えなければもう少し詳しくブログで教えていただけると嬉しいです。』
この方には、私が書いたあの時の体験は、たった一度の完全昇華で、30年も前のことなので、大まかな記憶しか伝えられなかった、というようなことをお伝えしました。
あの経験以来、何度かクンダリーニをまた経験したいとトライしたものの、あれほどはっきりとした体験はできませんでした。
しかし、その試みは何年か後のことでした。
なぜ引き続き訓練しなかったのか、わけがあります。
ある恐怖心から立ち直る必要があったからです。
あの短い記事を投稿した後、
私が一度電話したあのダンテツさんのウィキペディアに
ちゃんと目を通したところ、
若くしてガス自殺で亡くなられたと書いてあったのに初めて気づいた次第です。
『なるほど』と思いました。
実はヨガを教えてくれていた私の友人も若くして命を絶たれています。
このようなことには触れずにいようかと思っていたのですが、
やはり書いた方がいいのかなと感じました。
むしろこのほうが、お伝えすべきなのです。
私はというと、あのすごい体験後、
数日内に思い出すのも恐ろしい奇妙な出来事に遭遇しています。
私だけではなく家族全員の命も危機一髪のところで助かった事故でした。
どんな事故かは、書くのを控えておきます。
それが起きる前兆として、体外離脱を2度経験しました。
どちらも不動明王のような恐ろしい顔つきの剣を振りかざす者に、
宝箱のようなものを私に開けさすまいとして追いかけまわされました。
般若心経を唱えて、やっとこさ自分の体に戻ることができました。
知識を備えずにただ神秘体験に好奇心を抱くことの恐ろしさを、
いやほど知らしめられました。
なぜ、ふらっと先日クンダリーニの体験談を語ったのでしょうか?
きっとこのことを書くためだったのでしょう。
あの頃、夫は鍼灸学校に通いながら、
夜は井村宏次先生の弟子としてクリニックで働いていました。
井村宏次先生には、私も体外離脱の実験に参加させてもらったりして、
当時お世話になっていました。
先生の紹介であるとき本山博先生に引き合わせてもらいました。
すると私を見るなり本山先生は、
「アストラル体がむき出しになっている。保護しないとだめだよ」
といわれました。
なるほど、どおりで、
体外離脱中に霊的アタックを受けたこともあったわけが納得できました。
それだけではなく、当時は現実でもなにかと辛い経験が重なりました。
先生に教えてもらったイメージトレーニングで、
私のアストラル体は、時間はかかりましたが、徐々に回復しました。
神秘体験は常に私を魅了させるものの、
どこから何が出てくるかわからないジャングルに飛び込む覚悟が必要ですし、
それでも冒険したければ、
知識が豊富なシャーマンなどの導きが必要なことはたしかです。

2015年09月16日
クンダリーニ体験
私は26才のときに友人の誘いでヨガを始めることになりました。
いちばん最初の先生は、ジバナンダ・ゴーシュ先生でした。
当時日本ではまだヨガが今日のように盛んではなかったのですが、
物珍しさに私はいち早く習い始めました。
ゴーシュ先生が教えてくれたヨガは、正直いうととてもハードでした。
アーサナ(ポーズ)が難しいというのではなく、
先生の教え方が難しかったのです。
当時はまだヨガマットが開発されていなかった時代だったので、
レッスンには白いシーツを一枚用意していきました。
ヨガレッスンは先生と一対一で行なわれました。
先生がたしか3、40分ぐらいの一連のアーサナを見せてくれて、
次回のレッスンまでに家でそれを練習してから、
先生の前で一連のポーズ全部を披露するという教え方でした。
その間先生は、私をじっと見ているのです。
なかなか覚えきれなかった自分をいつも恥ずかしいと感じていました。
私は28才のときに沖ヨガに出逢いました。
沖ヨガと同時に佐保田ヨガ、
それらに加えてT.K.V.デシカチャーのヨガセラピーを、
インドで学んだ友人からも教わるという、
ヨガ三昧の日々を数年間送っていました。
あのまま続けていたら今頃きっとスゴイことになっていたでしょうね。
ヨギソニア?
少なくとも今の体形ではないでしょうね(笑)。
32才のある夜のことでした。
私はその日、夜7時から始まる
沖ヨガの高木先生宅にレッスンを受けに行く予定をしていました。
私はその数日前からエネルギーが回りすぎて落ち着かない状態が続いていたので、
先生に電話をかけて相談したところ、
レッスンには出席せずに家で瞑想しなさいというアドバイスを受けました。
今思うには、明らかにヨガのやりすぎでした。
夕食を終えて子供たちも寝静まった10時ごろから
私は白いふすまに向かって座禅を組みました。
最初は30分ほど結跏趺坐で呼吸に意識しながら瞑想していました。
すると呼吸ごとに太もものあたりから上に向かって、
体がコンクリートで固めたようにどんどん硬直していくのです。
やがて指一本すら動かせない状態となりました。
呼吸に意識をやると、まったく呼吸をしていない自分がいました。
そのときでした。
急に尾てい骨のあたりから背骨に沿って、
まるでぐにゅっと蛇が上に向かって這い上がったような感覚がしました。
上に向かってはまた下方へと、
蛇が体内を駆け巡っているような感覚がしばらく続きました。
半眼で白いふすまを見つめていると、
普段の明るさよりずっと明るさが増していて、
視角もぐっと広がって後ろの方まで見えていました。
すると自分の周りに波のように分子のような輪が広がっていて、
そのひとつひとつに蛍光色の赤、黄、緑がついていました。
驚いたことには、ふすまにたまゆらのような炎の影が映っていたのです。
これって私!? これって悟りの境地では?
19才の時に経験した臨死体験とよく似た感覚を味わいつつも、
その後思考は完全に消えてしまい、
いわゆる‘三昧’(サマーディ)状態を数時間経験しました。
日の出とともにその状態がようやく終わりました。
まるでスウィッチを抜いたように体がぐにゃっとなりました。
その日から数日間は、時間が逆になったかのように、
先になんでも予知することができました。
あの状態がどんな体験にも比較にならないほど最高だったので、
また経験したいと何度か座禅をしながら試してみました。
でもあれほどの境地を得ることはできませんでした。
そこで、クンダリーニヨガについて書いるある本を購入して読むことにしました。
ダンテス・ダイジという禅の老子が書いた本です。
それを読んでからまたトライするのですが、やはりだめなのです。
期待を込めて座禅するというのはもってのほか。
その本の最後に著者の電話番号が載っていたので、
ダメもとでかけてみることにしました。
すると、ベルが鳴ったとたんに老子ご本人が受話器を取られたのです。
なにも説明しない前に、
「座布が低すぎる! それでは、喉で止まってしまう!」
と二言でガチャンでした。
なんとも凄すぎ! すべてお見通しだったのです。

[FBへの転載はご遠慮ください]
いちばん最初の先生は、ジバナンダ・ゴーシュ先生でした。
当時日本ではまだヨガが今日のように盛んではなかったのですが、
物珍しさに私はいち早く習い始めました。
ゴーシュ先生が教えてくれたヨガは、正直いうととてもハードでした。
アーサナ(ポーズ)が難しいというのではなく、
先生の教え方が難しかったのです。
当時はまだヨガマットが開発されていなかった時代だったので、
レッスンには白いシーツを一枚用意していきました。
ヨガレッスンは先生と一対一で行なわれました。
先生がたしか3、40分ぐらいの一連のアーサナを見せてくれて、
次回のレッスンまでに家でそれを練習してから、
先生の前で一連のポーズ全部を披露するという教え方でした。
その間先生は、私をじっと見ているのです。
なかなか覚えきれなかった自分をいつも恥ずかしいと感じていました。
私は28才のときに沖ヨガに出逢いました。
沖ヨガと同時に佐保田ヨガ、
それらに加えてT.K.V.デシカチャーのヨガセラピーを、
インドで学んだ友人からも教わるという、
ヨガ三昧の日々を数年間送っていました。
あのまま続けていたら今頃きっとスゴイことになっていたでしょうね。
ヨギソニア?
少なくとも今の体形ではないでしょうね(笑)。
32才のある夜のことでした。
私はその日、夜7時から始まる
沖ヨガの高木先生宅にレッスンを受けに行く予定をしていました。
私はその数日前からエネルギーが回りすぎて落ち着かない状態が続いていたので、
先生に電話をかけて相談したところ、
レッスンには出席せずに家で瞑想しなさいというアドバイスを受けました。
今思うには、明らかにヨガのやりすぎでした。
夕食を終えて子供たちも寝静まった10時ごろから
私は白いふすまに向かって座禅を組みました。
最初は30分ほど結跏趺坐で呼吸に意識しながら瞑想していました。
すると呼吸ごとに太もものあたりから上に向かって、
体がコンクリートで固めたようにどんどん硬直していくのです。
やがて指一本すら動かせない状態となりました。
呼吸に意識をやると、まったく呼吸をしていない自分がいました。
そのときでした。
急に尾てい骨のあたりから背骨に沿って、
まるでぐにゅっと蛇が上に向かって這い上がったような感覚がしました。
上に向かってはまた下方へと、
蛇が体内を駆け巡っているような感覚がしばらく続きました。
半眼で白いふすまを見つめていると、
普段の明るさよりずっと明るさが増していて、
視角もぐっと広がって後ろの方まで見えていました。
すると自分の周りに波のように分子のような輪が広がっていて、
そのひとつひとつに蛍光色の赤、黄、緑がついていました。
驚いたことには、ふすまにたまゆらのような炎の影が映っていたのです。
これって私!? これって悟りの境地では?
19才の時に経験した臨死体験とよく似た感覚を味わいつつも、
その後思考は完全に消えてしまい、
いわゆる‘三昧’(サマーディ)状態を数時間経験しました。
日の出とともにその状態がようやく終わりました。
まるでスウィッチを抜いたように体がぐにゃっとなりました。
その日から数日間は、時間が逆になったかのように、
先になんでも予知することができました。
あの状態がどんな体験にも比較にならないほど最高だったので、
また経験したいと何度か座禅をしながら試してみました。
でもあれほどの境地を得ることはできませんでした。
そこで、クンダリーニヨガについて書いるある本を購入して読むことにしました。
ダンテス・ダイジという禅の老子が書いた本です。
それを読んでからまたトライするのですが、やはりだめなのです。
期待を込めて座禅するというのはもってのほか。
その本の最後に著者の電話番号が載っていたので、
ダメもとでかけてみることにしました。
すると、ベルが鳴ったとたんに老子ご本人が受話器を取られたのです。
なにも説明しない前に、
「座布が低すぎる! それでは、喉で止まってしまう!」
と二言でガチャンでした。
なんとも凄すぎ! すべてお見通しだったのです。

[FBへの転載はご遠慮ください]
2015年08月16日
原点に還る
近々今までのすべてがすっかり変わってしまうほど劇的なゲートを通過するような気がする今日この頃です。もうすでに通過したかもしれないですが……。
というようなことで、ある意味で私自身のスピリチュアル原点を振り返ってみたいと思いました。以前のブログでも投稿した部分も含まれています。
========================
臨死体験に至るまで
私は17才のときにイタリアのウンブリア州ペルージアで生活し始めていました。もとはといえば、オーストラリアに一年間留学することが決まっていたのです。ほか数名の留学生仲間は全員すでにブリスベンやシドニーに向けて出発したというのに、私だけがホームステイ先がなかなか決まらず、半年間も今か今かと旅立つ日をひたすら待ち続けていました。
そんなある日、苛立ちながらも私はじっくりとオーストラリア留学について考えてみました。外国ならどこでもいいという気持ちで、あるチャリティー機関に応募したことはたしかですが、別にオーストラリアでなくてもよかったとさえ思えるようになりました。ちょうどその一年前は、短期留学で私はデンマークで数か月間過ごしていました。あの旅から戻ってきて数か月も経たないうちに私は日本での生活も、私立女子校にもうんざりしていました。どこにいても自分だけがひとり浮いてるような気がしてならなかったのです。
デンマークから帰国してからは、まるで別の惑星に辿り着いたような違和感でいっぱいでした。オーストラリア留学がなかなかスムーズに運ばなかった理由は、ほんとうはオーストラリアに行きたくないことに私は気づきました。とはいっても、そのまま日本にいる気持ちはまったくありませんでした。あと半年ほどで高校卒業というのに、一日たりとも日本でのいい加減な学生生活に我慢できなかったのです。幸いにも私が通っていた私立高校は当時では珍しく単位制でしたので、出席日数が足らない以外は高校卒業をクリアしていたことをなんとかうまく利用して、日本脱出を計画しました。後になってわかったことですが、私が日本を発ってから学校と両親の話し合いのもとに、私は一応高校を卒業させてもらったことにしてもらったそうです。
私は親の反対を押し切って、18才のお誕生日の数か月前にアリタリア機に乗り、ひとりローマに着きました。家出同然でした。ローマから列車に乗ってペルージャという小さな田舎町に私は辿り着きました。その翌日からUniversita per Stranieri (ペルージャ外国人大学)に通い始めました。憧れのイタリア生活がはじまったのです。学校から紹介してもらった下宿先には、もう一人オペラ歌手を目指す日本人女性がいました。それにしても、当時イタリアに留学する日本人の数はしれていました。おそらくあの頃は、イタリア中で私がいちばん年少の日本人留学生だったでしょう。
家族や先生たちの反対を押し切って歩みだした我が道をちゃんと全うするまでは、けして日本には帰国できない。張りつめたその気持ちが常に私を後押ししていました。だから外国にいても日本人と友だちになることを意識的に避け続けていました。なんとそれがあれから5年近くも続くことになったとは・・・。
一日も早くイタリア語をマスターして専門学部に進まないと、それしか私の頭にはありませんでした。最初の数か月間は、一日に30単語を覚えるという勢いでした。ちゃんとした専門学部に進めるように準備に必死でした。そうして一年ほど経ったある日、私は大学の先生たちに自分の進路を相談したところ、イタリアの小学校からやり直さなければ、大学入学は無理だというはっきりとした答えが返ってきました。私は半年ほどそのままペルージャでイタリア語を勉強したあと、根拠地をイギリスに移すことを決意しました。
英語ならきっと問題なく大学に進めると思ったからです。私は小学校の2年ぐらいから海外に出ることばかり考えていたので、そのころから英会話学校に通わせてもらい、おまけに外人の家庭教師までつけてもらっていました。幼い私がそこまで計画していたとは、両親はまったく気づいていませんでした。中学生の時は英語弁論大会に出場したり、英検2級をとっていました。イタリアに滞在している間もちゃんとアメリカ人の友だちをつくって、英会話の練習を怠りませんでした。
私は1971年のクリスマス直前にロンドンに到着しました。オックスフォードサーカスのはずれの歯医者さんの家に一間を借りて、英会話学校に通うことからスタートしました。一年ほど昼間は英語学校で、夜は美大の夜間コースに通いました。そして当時O(オー)レベルと呼ばれていた検定試験を数科目受けてから、念願の美大に願書を提出しました。ウエストロンドンカレッジに所属する‘Hammersmith school of Art and Building’ という学校でした。ここに入学するにあたり、私は友人のイタリア人女性が勤めていた建築事務所の社長に頼んで推薦状を書いてもらったり、あらゆる努力をしてやっと入学できたのです。一年目は授業についていくのに必死でした。ちょうど一年目が過ぎようとした頃、まだ20才にも私は満たなかった私は、やっと雰囲気にも慣れてきました。夏休みにはペルージャでイタリア語の夏期講座を受けるために、ヒッチハイクでロンドンからイタリアまで一日半ほどかけて行きました。当時ヒッチハイクは、それほど危険なことではなかったのです。私は友人から借りた本を読みながら、ひとりでヒッチしました。今から思えば、大胆きわまる青春時代だったにはちがいありません。
借りた本の中でも私が惹かれたのは、ランボーの詩とかサルトルの本でした。いわゆる実存主義の世界に私はどっぷり浸かっていました。イギリスでの一人暮らし、イタリアまでひとりで旅したりしていることにまったく寂しさを感じなかったのですが、心の中では人種差別を受けた様々な経験や孤独感が募っていたのでしょう。さらには、芸術というまた独特な世界が重なり合い、精神的にとても不安定な状態にありました。そんなある日、私は学校の帰り道で生きていることの意味を完全に見失いました。というよりも、むしろ、あの世に行ってみたくなったのかもしれません。ちょうど日本が嫌になって海外に飛び出したのと同じような単純な理由からです。
自殺未遂
気がつけば、私は病院のベッドに横たわっていて、自分の指が二倍ほど膨れ上がっていました。
『ここを今すぐ出なければ・・・』
とりあえず、ベッドの横に置かれていた服に着替えてから、私は病院を脱出しました。ロンドン地下鉄の、たしかベーカールー線でした。じっと座って行ったり来たり何往復も終点から終点まで乗っていたと思います。すると、私のことを知っているらしき女性が突然、私が腰を掛けていた車両に乗ってきたのです。
「いったい、どうしたの!?」
その女性が、私が当時暮らしていたアパートまで連れて帰ってくれました。
記憶喪失
私は誰?
まったく自分のことが思い出せませんでした。あの事故で記憶が飛ばされてしまったのです。学校の友だちが次々と交代で私の看病に来てくれました。
「あなたは愛知早苗よ」
そういわれてみればそうかもしれない。このような状態が約一か月間続きました。記憶喪失というのは、植物人間のようで食べる気力さえも失っているのです。それにしてもなぜか、あの時に体験した向こう側(・・・・)の(・)世界(・・)の記憶だけが、生々しく鮮明に残っていました。あの経験はかれこれ40数年も前のことで、前世の記憶に等しいともいえるほど遠い過去の出来事であるにしても、私の人生がそれ以前と、それ以降とはっきりと分けられるほど劇的な出来事でした。
臨死体験
別世界の旅への入口は、なんと数字でした。私は2と3の間に滑り込むように入っていきました。しかし同時にそれはなぜか、フランスとイタリアの国境と重なりあっているのを意識できました。その入り口から中に入っていくと、ミラーハウスのようなたくさんの鏡の壁に私は囲まれていました。どの部屋に入るとそこから出られるのか、迷っている自分がいました。
次なる記憶を辿っていくと、自分の体がまるで筒のように空っぽになり、上から下へ、下から上へと、風というか、エネルギーというか、なにかが勢いよく抜けては入り込む。これが永遠と思えるほど長く続きました。やがてそれが暗いトンネルであることに私は気づきました。今から思えば、死後の世界において初期段階に現れると一般に知られている、ほとんどの臨死体験者が記憶しているあのトンネルを私もまたそこで経験していたのでしょう。死後の世界のトンネルは、実は生命エネルギーの根源であり、いわゆる「クンダリーニエネルギー」の流れと同じではないのだろうかと、今となって私にはそう思えるのです。
やがて私は、そのときまで生きて経験したすべての、こと細やかな記憶が再現され、次から次へと絶え間なく襲ってくる世界から出られなくなっていました。それにしても、それらはすべて私が好きという感情を抱いた記憶の再現でした。たとえば、みずみずしくて美味しそうないちごにミルクがかかっているイメージが現れたとたんに、次は大好きなビートルズの曲の一節だったり、それらが目まぐるしく交代しながら止まらない世界に私は責められていたのです。私が好きと感じたり、愛した一瞬一瞬が、次から次へと猛スピードで再現されながら襲ってくるのです。自分自身に嫌悪感を抱くほど、これでもか、これでもかと、空っぽの筒のようになった私に映像と共にその一瞬一瞬の感情がパッ、パッと永遠とも思えるほど続くのです。その時の私の意識は、普段よりもはるかにはっきりしていました。
全部なにひとつ残すものなく自分が愛した人や動物、モノをシャワーのように私は浴びさせられました。たった19才の私の自我の大きさにぞっとするほど見せられたのです。たしかに最初のほうは、その再現を楽しんでいたのですが、とうとう「もういい、やめてえー」と私は叫びました。するとそれは以外にも簡単にピタッと止まったのです。
次なる記憶は、トンネルの向こう側の光が見えたことでした。にもかかわらず、私はトンネルの壁にある一つの部屋の扉を開けました。ギギギーと扉が開くと、その部屋の中はお化け屋敷のようで、薄暗く、灰色一色で包まれた古めかしい部屋でした。そこら中にクモの巣が張っていて、人の気配が長らくなかったような古い部屋で、気持ち悪さと恐ろしさが漂っていました。
はっと気がつくと、私はその部屋の中央にある楕円形のテーブルに横たわっていたのです。テーブルの周りには、小柄で大きな目をした3,4人の存在たちが私を囲んでいました。人間ではないと、すぐに判りました。今になって思えば、たしかにあれがグレイエーリアンだったように思われます。この体験は1970年代初頭で、まだグレイどころか、宇宙人のコンセプトさえあまりなかった時代であるにしても。
そのテーブルに私は縛られていました。ロープも何もなかったのに身動きひとつできないのです。彼らは私を見つめながら互いに無言で、テレパシーで会話しているようでした。
「どこから切開しようか?」
『冗談でしょ』と、私は一瞬思ったのですが、いや冗談ではなく、本気なのがその化け物の大きなアーモンド型の目からじわっと伝わってきました。見渡せば、その不気味な霧がかかったような灰色の部屋に、40センチほどの先が尖った大きな針のような刃物が、唯一リアルな世界と同じ輝きで光っていて、その太いほうの端を彼らの仲間のひとりが握っていました。
「やめてぇー」と私は大声で叫んだのですが、まったく動けないのです。先ほどの甘い世界から一変して、それまでに味わったことのない最大の恐怖を私は覚えました。どんなホラー映画も比較にならないくらいの究極の恐怖を体験させられたのです。いちばん恐ろしかったのは、彼らにはまったく表情もなければ、感情も一切ないと悟ったときでした。私に対して憎しみの感情さえない、単なる実験動物を扱うような冷酷さでした。その恐怖の絶頂の瞬間がしばらく続いた後、私は完全にあきらめの境地に入っていきました。どうしようもない、逃れられない運命を覚悟したのです。
『これで一巻の終わり・・・私はなんとバカなことをしでかしたのだ。でももう遅い!』
その刃物は、上方からゆっくりと私の心臓を目指して降りてきました。「いよいよもうだめ!」と思った瞬間に私は目を閉じたのです。するとその刃物はプチンと、まるでちっちゃな針が刺さったぐらいのインパクトで胸に刺さりました。
「あれえ、なにこれ?!」
まったく痛くもなにも感じませんでした。しかし、ほっと安心したのは束の間で、次の瞬間には、ものすごいスピードで私は上昇し、その不気味な部屋を上へと突き抜けていきました。どんどん私は上昇していき、下方に地球が小さく見えるくらいになっても止まりませんでした。私の体が止まったところは、広大な宇宙の彼方で、夜空の青さが広がっていました。周りには惑星や星が散らばっているのが見えていて、私はあのテーブルに寝かされていた状態のままで宇宙に浮いて漂っていました。
自分の胸のあたりから渦巻き線が、いくつもさざ波のように宇宙に向けて広がっていました。私は独りっきりで、あるのは宇宙の壮大さだけでした。意識ははっきりとしていて、底知れない孤独感に私は包まれていました。
「誰もいないの? たった一人っきりなんだ」
そのとき私の足元から宇宙に溶け込むように消え始めていました。それにしても、私の意識だけがその孤独感と共に残っていました。
『これが死なんだ。ほんとうにバカなことをしてしまった。意識はこのまま残るとは。いや、生きている時よりも、むしろもっとはっきりしている・・・』
と、どこからか声がしてきました。
「そうです。意識はそのまま残るのです。しかし、その孤独感はもうすぐ消えますから・・・」
その声は、先ほどの気持ち悪い存在たちのものではなかったことは、はっきりと判りました。少なくとも私のことを思っていてくれている愛ある存在の声と感じられたのです。その声が聞こえるや否や、孤独感は消えていました。最終的に私には、ただそこに存在するのみという感覚だけが残りました。私は宇宙の一部である。ただそれだけ感じられる自分が、はっきりとした意識としてありました。
『ああ、これが永遠・・・これでいいんだ』
生前の心の葛藤や疑問がすべて消えて、静寂とすべてがそれで完璧という感覚だけが最終的に残りました。浮いている自分を眺めると、あの渦巻きも私の肉体もほとんど胸のあたりまで消えしまっていました。文字通り私は宇宙に溶け込み、一体となっていたのです。
すると突然、どこからともなく先ほどとはまた異なる質の声が聞こえてきました。こんどは宇宙全体に深く響きわたる声でした。そしてこう告げられたのです。
「あなたが所属する村を探したのですが、見つかりませんでした。あなたはもう一度、地球に戻ることになりました」
そこで私の意識は一瞬にして肉体に戻り、目が覚めました。そこがロンドンの、あの救急病院だったのです。あれからずいぶん後になってわかったことですが、‘所属する村’とは、おそらくグループソウルのことだったのでしょう。
もうひとつ、あの経験から何年も経ってから気づいたことですが、グレイエーリアンというのは、別に悪い奴らではなく、むしろ人間が死に至るまでに、最大の恐怖を浄化するプロセスを手伝ってくれる役目があるのではないかということです。私たちが魂の故郷に帰還するイニシエーション(通過儀礼)に関わってくれる存在たちが、きっと彼らなのです。そういう意味では、「コミュニオン」(扶桑文庫、1994)というグレイエーリアンについての小説を書いたウィットリー・ストリーバーという作家の結論的な気づきと同意見ということになります。
プレアデスの存在たちが、いつか教えてくれたことがあります。それは、私たち人間が死に直面する際に、彼ら(プレアデス星人)も必ずそのプロセスを誘導するために関わるということです。ということは、だれでも遅かれ早かれみんな彼らと遭遇するということになります。だとすれば、私の彼らとの最初の遭遇は、ロンドンで経験したあの臨死体験から始まっていたのかもしれません。いえ、ひょっとすると、私が幼いころに腸チフスにかかり、生死の境をさ迷っていたときから始まっていたのかもしれない、ということです。
あのときの記憶がもっと鮮明な時期に記録しておけば、今こうして思い出せる内容よりも詳しく残っていただろうと思うことがよくありますが、それと同時に忘れたいという気持ちが常にありました。現実生活とまったくつじつまが合わない経験だったからです。経験直後は、あの経験以前の自分のすべてを、一か月ほど思い出せないくらいのショック状態に陥っていたことはたしかです。
臨死体験を経験した人たちが、その後劇的に人生が変わり、必然的にスピリチュアルな生き方を探求するようになると、よくいわれています。あの世を垣間見たショックは、この世の価値観を一変させ、あのトラウマ的な体験が偶然に起きたのではないことを、体験者はいずれ悟ることになるのだと思います。そして、あの世で体験したことの方が、この世で起きることよりもはるかにリアルで意味深いと捉えるようになるのでしょう。いつの日かあの世に再び戻るまでは、できるだけ意味深い生きた方をしようとするようになるでしょう。すなわち、常に死を身近に感じられる生き方へと切り替わるのです。仏教でいうところの諸行無常を、身をもって知るに至る、ということです。これがスピリチュアルな生き方の基盤かもしれません。
臨死体験後のシンクロに導かれて
さて、あのような体験をした直後の私は本来ならば、精神科医かセラピストのお世話にならなければならない状態でした。しかし、彼らは誰一人として私を癒すこともできなければ、あのとき私に囁きかけた声の存在に会わせてくれることなどできるはずがないと、私は確信していました。私はあの時以来、ずっと今日まで目に見えない糸で導かれながら、次から次へと多くの精神性豊かな人々との出会いがありました。その目に見えない糸とは、シンクロニシティの計らいです。
その計らいによって、あの経験から間もなくして私は、ロンドンの街で運よく魔術師(私がそう呼んでいる)アルフレードに発見され、数時間内に奇跡的にも記憶喪失から解き放されたのです。それどころか、彼の導きによって前世の記憶まで甦らせることができました。と同時に完全なサマーディ(覚醒状態)を体験したのです。残念ながらその状態はわずか数週間しか続かなかったのですが、その間思考が完全に静止していました。その上、睡眠や夢を見る必要もまったくなく、目を開いたまま横たわり、体を休めるだけでした。至福に満ちたワンネスだけの世界です。
それから徐々に私は俗世界に落ちていきました。もがけばもがくほど沈んでいくようななんともいえない最低の気分を味わいながら、日増しに自分が堕天使のように思えてきました。あれは一時的な覚醒にすぎなかったのです。考えてみると、たった19才の私にはまだまだ俗世界で学ばなければならないことがたくさんあったからです。とはいえ、あのときから私はアルフレードの弟子になり、不思議な魔法の世界を出入りする方法を学び始めていたのです。
ロンドン? 魔法? ハリーポッターの世界じゃないか、って思われる方もおられるでしょうが、実際にロンドンという街は、パリやプラハ、トリノと並んで中世期の錬金術が栄えただけあって、不思議なパワーを秘めたスポットが実際に現代でもあちこちに点在している街なのです。住んでみないと、普通の観光では決して発見できないですが。
アルフレードに教わる魔法のレッスンは、たいていは戸外で行なわれました。まずは歩きながら、パワースポットを見つけることから始まります。明らかに異質のエネルギーに満ちた直径1メートル半くらいの円形エリアが見つかるのです。それらを発見する度にその中に入ったり出たりしながらその日のレッスンに相応しい力を与えてくれる、文字通りパワースポットを探し当てるのです。そのあと様々な術を彼は私に伝授してくれました。
不思議としかいいようのない世界に彼は私を導いてくれました。そんなある日、ひょっとすると魔法は私独自の力ではなく、彼の力によって起きているのではないかという疑いが私の心に生じたのです。それとほぼ同時期に、彼は私の前から姿を消しました。若さがゆえの純粋無垢な心が、超自然の教えを素直に吸収できたのです。そういう意味では、あの頃が私の人生で最高のクレシェンドだったのかもしれません。
あれから少し時が流れてから、私の夫となるエハン・デラヴィに、これまた奇遇な巡り合せによって結ばれることになりました。正直なところ、それは私にとって偉大な魔術師になるという生涯をかけた、途方もなく現実離れした冒険の夢を断念しての決断でした。アンデス山脈のどこかに存在する異次元の扉までいつかアルフレードが案内してくれる、という約束まで交わしていたからです。
しかし、その時期が訪れるまでは、まずは普通の人間としての経験が必要だと、直観的に私は悟り、結婚という道を選びました。それが二十歳そこそこの私の思考だったのです。たしかにあの臨死体験以来、私が何歳であれ関係なく、必要に応じて賢い老婆のような英知が与えられることがあるのです。それが私自身の‘ハイアーセルフ’であることに、後に私は理解するに至りました。
私と夫との接点とは、最初から形而上学であり、いわゆる精神世界のことでした。こういうとうらやましがられるかもしれませんが、とんでもございません。二人そろって現実生活においてはビギナーズどころではなく、相当なハンディキャップ同士だったのです! これが解る頃には、すでに三人の子供たちが誕生していました。
実は彼こそ、まさしく堕天使なのです。あきれてしまうほど、人間界に慣れていない人なのです。妻である私がそれをいちばんよく知っています。私たち夫婦にとって、いかにスピリチュアリティを現実生活に融合させるか、これが四十数年間片時もなく継続させてきた共通かつ究極のテーマであり、ときとして辛い学びでもあるわけです。
私は夫と巡り会えたことによって今日にいたるまで、世界中の注目すべき人々に直接会うチャンスにも恵まれ、また様々な専門分野の優れた研究家たちから多くの知識を与えられるという、とても意味深い人生コースを歩むことになりました。その知識の中には、若い頃にアルフレードが私に見せてくれた世界を、論理的に説明づけてくれる学者まで含まれていました。ちゃんとシンクロニシティによって導かれているのですね。
むろん、夫のエハン自身から私が得た知識や情報は、40年という長い歳月を通して無限に等しいほど莫大な量です。とりわけ、私がいちばん彼に感謝しているのは、スコティッシュ特有の明るさで何事も積極的に捉え、また躊躇せずに行動に移せるという、本来私に欠けていたクオリティを譲り受けたことです。
というようなことで、ある意味で私自身のスピリチュアル原点を振り返ってみたいと思いました。以前のブログでも投稿した部分も含まれています。
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臨死体験に至るまで
私は17才のときにイタリアのウンブリア州ペルージアで生活し始めていました。もとはといえば、オーストラリアに一年間留学することが決まっていたのです。ほか数名の留学生仲間は全員すでにブリスベンやシドニーに向けて出発したというのに、私だけがホームステイ先がなかなか決まらず、半年間も今か今かと旅立つ日をひたすら待ち続けていました。
そんなある日、苛立ちながらも私はじっくりとオーストラリア留学について考えてみました。外国ならどこでもいいという気持ちで、あるチャリティー機関に応募したことはたしかですが、別にオーストラリアでなくてもよかったとさえ思えるようになりました。ちょうどその一年前は、短期留学で私はデンマークで数か月間過ごしていました。あの旅から戻ってきて数か月も経たないうちに私は日本での生活も、私立女子校にもうんざりしていました。どこにいても自分だけがひとり浮いてるような気がしてならなかったのです。
デンマークから帰国してからは、まるで別の惑星に辿り着いたような違和感でいっぱいでした。オーストラリア留学がなかなかスムーズに運ばなかった理由は、ほんとうはオーストラリアに行きたくないことに私は気づきました。とはいっても、そのまま日本にいる気持ちはまったくありませんでした。あと半年ほどで高校卒業というのに、一日たりとも日本でのいい加減な学生生活に我慢できなかったのです。幸いにも私が通っていた私立高校は当時では珍しく単位制でしたので、出席日数が足らない以外は高校卒業をクリアしていたことをなんとかうまく利用して、日本脱出を計画しました。後になってわかったことですが、私が日本を発ってから学校と両親の話し合いのもとに、私は一応高校を卒業させてもらったことにしてもらったそうです。
私は親の反対を押し切って、18才のお誕生日の数か月前にアリタリア機に乗り、ひとりローマに着きました。家出同然でした。ローマから列車に乗ってペルージャという小さな田舎町に私は辿り着きました。その翌日からUniversita per Stranieri (ペルージャ外国人大学)に通い始めました。憧れのイタリア生活がはじまったのです。学校から紹介してもらった下宿先には、もう一人オペラ歌手を目指す日本人女性がいました。それにしても、当時イタリアに留学する日本人の数はしれていました。おそらくあの頃は、イタリア中で私がいちばん年少の日本人留学生だったでしょう。
家族や先生たちの反対を押し切って歩みだした我が道をちゃんと全うするまでは、けして日本には帰国できない。張りつめたその気持ちが常に私を後押ししていました。だから外国にいても日本人と友だちになることを意識的に避け続けていました。なんとそれがあれから5年近くも続くことになったとは・・・。
一日も早くイタリア語をマスターして専門学部に進まないと、それしか私の頭にはありませんでした。最初の数か月間は、一日に30単語を覚えるという勢いでした。ちゃんとした専門学部に進めるように準備に必死でした。そうして一年ほど経ったある日、私は大学の先生たちに自分の進路を相談したところ、イタリアの小学校からやり直さなければ、大学入学は無理だというはっきりとした答えが返ってきました。私は半年ほどそのままペルージャでイタリア語を勉強したあと、根拠地をイギリスに移すことを決意しました。
英語ならきっと問題なく大学に進めると思ったからです。私は小学校の2年ぐらいから海外に出ることばかり考えていたので、そのころから英会話学校に通わせてもらい、おまけに外人の家庭教師までつけてもらっていました。幼い私がそこまで計画していたとは、両親はまったく気づいていませんでした。中学生の時は英語弁論大会に出場したり、英検2級をとっていました。イタリアに滞在している間もちゃんとアメリカ人の友だちをつくって、英会話の練習を怠りませんでした。
私は1971年のクリスマス直前にロンドンに到着しました。オックスフォードサーカスのはずれの歯医者さんの家に一間を借りて、英会話学校に通うことからスタートしました。一年ほど昼間は英語学校で、夜は美大の夜間コースに通いました。そして当時O(オー)レベルと呼ばれていた検定試験を数科目受けてから、念願の美大に願書を提出しました。ウエストロンドンカレッジに所属する‘Hammersmith school of Art and Building’ という学校でした。ここに入学するにあたり、私は友人のイタリア人女性が勤めていた建築事務所の社長に頼んで推薦状を書いてもらったり、あらゆる努力をしてやっと入学できたのです。一年目は授業についていくのに必死でした。ちょうど一年目が過ぎようとした頃、まだ20才にも私は満たなかった私は、やっと雰囲気にも慣れてきました。夏休みにはペルージャでイタリア語の夏期講座を受けるために、ヒッチハイクでロンドンからイタリアまで一日半ほどかけて行きました。当時ヒッチハイクは、それほど危険なことではなかったのです。私は友人から借りた本を読みながら、ひとりでヒッチしました。今から思えば、大胆きわまる青春時代だったにはちがいありません。
借りた本の中でも私が惹かれたのは、ランボーの詩とかサルトルの本でした。いわゆる実存主義の世界に私はどっぷり浸かっていました。イギリスでの一人暮らし、イタリアまでひとりで旅したりしていることにまったく寂しさを感じなかったのですが、心の中では人種差別を受けた様々な経験や孤独感が募っていたのでしょう。さらには、芸術というまた独特な世界が重なり合い、精神的にとても不安定な状態にありました。そんなある日、私は学校の帰り道で生きていることの意味を完全に見失いました。というよりも、むしろ、あの世に行ってみたくなったのかもしれません。ちょうど日本が嫌になって海外に飛び出したのと同じような単純な理由からです。
自殺未遂
気がつけば、私は病院のベッドに横たわっていて、自分の指が二倍ほど膨れ上がっていました。
『ここを今すぐ出なければ・・・』
とりあえず、ベッドの横に置かれていた服に着替えてから、私は病院を脱出しました。ロンドン地下鉄の、たしかベーカールー線でした。じっと座って行ったり来たり何往復も終点から終点まで乗っていたと思います。すると、私のことを知っているらしき女性が突然、私が腰を掛けていた車両に乗ってきたのです。
「いったい、どうしたの!?」
その女性が、私が当時暮らしていたアパートまで連れて帰ってくれました。
記憶喪失
私は誰?
まったく自分のことが思い出せませんでした。あの事故で記憶が飛ばされてしまったのです。学校の友だちが次々と交代で私の看病に来てくれました。
「あなたは愛知早苗よ」
そういわれてみればそうかもしれない。このような状態が約一か月間続きました。記憶喪失というのは、植物人間のようで食べる気力さえも失っているのです。それにしてもなぜか、あの時に体験した向こう側(・・・・)の(・)世界(・・)の記憶だけが、生々しく鮮明に残っていました。あの経験はかれこれ40数年も前のことで、前世の記憶に等しいともいえるほど遠い過去の出来事であるにしても、私の人生がそれ以前と、それ以降とはっきりと分けられるほど劇的な出来事でした。
臨死体験
別世界の旅への入口は、なんと数字でした。私は2と3の間に滑り込むように入っていきました。しかし同時にそれはなぜか、フランスとイタリアの国境と重なりあっているのを意識できました。その入り口から中に入っていくと、ミラーハウスのようなたくさんの鏡の壁に私は囲まれていました。どの部屋に入るとそこから出られるのか、迷っている自分がいました。
次なる記憶を辿っていくと、自分の体がまるで筒のように空っぽになり、上から下へ、下から上へと、風というか、エネルギーというか、なにかが勢いよく抜けては入り込む。これが永遠と思えるほど長く続きました。やがてそれが暗いトンネルであることに私は気づきました。今から思えば、死後の世界において初期段階に現れると一般に知られている、ほとんどの臨死体験者が記憶しているあのトンネルを私もまたそこで経験していたのでしょう。死後の世界のトンネルは、実は生命エネルギーの根源であり、いわゆる「クンダリーニエネルギー」の流れと同じではないのだろうかと、今となって私にはそう思えるのです。
やがて私は、そのときまで生きて経験したすべての、こと細やかな記憶が再現され、次から次へと絶え間なく襲ってくる世界から出られなくなっていました。それにしても、それらはすべて私が好きという感情を抱いた記憶の再現でした。たとえば、みずみずしくて美味しそうないちごにミルクがかかっているイメージが現れたとたんに、次は大好きなビートルズの曲の一節だったり、それらが目まぐるしく交代しながら止まらない世界に私は責められていたのです。私が好きと感じたり、愛した一瞬一瞬が、次から次へと猛スピードで再現されながら襲ってくるのです。自分自身に嫌悪感を抱くほど、これでもか、これでもかと、空っぽの筒のようになった私に映像と共にその一瞬一瞬の感情がパッ、パッと永遠とも思えるほど続くのです。その時の私の意識は、普段よりもはるかにはっきりしていました。
全部なにひとつ残すものなく自分が愛した人や動物、モノをシャワーのように私は浴びさせられました。たった19才の私の自我の大きさにぞっとするほど見せられたのです。たしかに最初のほうは、その再現を楽しんでいたのですが、とうとう「もういい、やめてえー」と私は叫びました。するとそれは以外にも簡単にピタッと止まったのです。
次なる記憶は、トンネルの向こう側の光が見えたことでした。にもかかわらず、私はトンネルの壁にある一つの部屋の扉を開けました。ギギギーと扉が開くと、その部屋の中はお化け屋敷のようで、薄暗く、灰色一色で包まれた古めかしい部屋でした。そこら中にクモの巣が張っていて、人の気配が長らくなかったような古い部屋で、気持ち悪さと恐ろしさが漂っていました。
はっと気がつくと、私はその部屋の中央にある楕円形のテーブルに横たわっていたのです。テーブルの周りには、小柄で大きな目をした3,4人の存在たちが私を囲んでいました。人間ではないと、すぐに判りました。今になって思えば、たしかにあれがグレイエーリアンだったように思われます。この体験は1970年代初頭で、まだグレイどころか、宇宙人のコンセプトさえあまりなかった時代であるにしても。
そのテーブルに私は縛られていました。ロープも何もなかったのに身動きひとつできないのです。彼らは私を見つめながら互いに無言で、テレパシーで会話しているようでした。
「どこから切開しようか?」
『冗談でしょ』と、私は一瞬思ったのですが、いや冗談ではなく、本気なのがその化け物の大きなアーモンド型の目からじわっと伝わってきました。見渡せば、その不気味な霧がかかったような灰色の部屋に、40センチほどの先が尖った大きな針のような刃物が、唯一リアルな世界と同じ輝きで光っていて、その太いほうの端を彼らの仲間のひとりが握っていました。
「やめてぇー」と私は大声で叫んだのですが、まったく動けないのです。先ほどの甘い世界から一変して、それまでに味わったことのない最大の恐怖を私は覚えました。どんなホラー映画も比較にならないくらいの究極の恐怖を体験させられたのです。いちばん恐ろしかったのは、彼らにはまったく表情もなければ、感情も一切ないと悟ったときでした。私に対して憎しみの感情さえない、単なる実験動物を扱うような冷酷さでした。その恐怖の絶頂の瞬間がしばらく続いた後、私は完全にあきらめの境地に入っていきました。どうしようもない、逃れられない運命を覚悟したのです。
『これで一巻の終わり・・・私はなんとバカなことをしでかしたのだ。でももう遅い!』
その刃物は、上方からゆっくりと私の心臓を目指して降りてきました。「いよいよもうだめ!」と思った瞬間に私は目を閉じたのです。するとその刃物はプチンと、まるでちっちゃな針が刺さったぐらいのインパクトで胸に刺さりました。
「あれえ、なにこれ?!」
まったく痛くもなにも感じませんでした。しかし、ほっと安心したのは束の間で、次の瞬間には、ものすごいスピードで私は上昇し、その不気味な部屋を上へと突き抜けていきました。どんどん私は上昇していき、下方に地球が小さく見えるくらいになっても止まりませんでした。私の体が止まったところは、広大な宇宙の彼方で、夜空の青さが広がっていました。周りには惑星や星が散らばっているのが見えていて、私はあのテーブルに寝かされていた状態のままで宇宙に浮いて漂っていました。
自分の胸のあたりから渦巻き線が、いくつもさざ波のように宇宙に向けて広がっていました。私は独りっきりで、あるのは宇宙の壮大さだけでした。意識ははっきりとしていて、底知れない孤独感に私は包まれていました。
「誰もいないの? たった一人っきりなんだ」
そのとき私の足元から宇宙に溶け込むように消え始めていました。それにしても、私の意識だけがその孤独感と共に残っていました。
『これが死なんだ。ほんとうにバカなことをしてしまった。意識はこのまま残るとは。いや、生きている時よりも、むしろもっとはっきりしている・・・』
と、どこからか声がしてきました。
「そうです。意識はそのまま残るのです。しかし、その孤独感はもうすぐ消えますから・・・」
その声は、先ほどの気持ち悪い存在たちのものではなかったことは、はっきりと判りました。少なくとも私のことを思っていてくれている愛ある存在の声と感じられたのです。その声が聞こえるや否や、孤独感は消えていました。最終的に私には、ただそこに存在するのみという感覚だけが残りました。私は宇宙の一部である。ただそれだけ感じられる自分が、はっきりとした意識としてありました。
『ああ、これが永遠・・・これでいいんだ』
生前の心の葛藤や疑問がすべて消えて、静寂とすべてがそれで完璧という感覚だけが最終的に残りました。浮いている自分を眺めると、あの渦巻きも私の肉体もほとんど胸のあたりまで消えしまっていました。文字通り私は宇宙に溶け込み、一体となっていたのです。
すると突然、どこからともなく先ほどとはまた異なる質の声が聞こえてきました。こんどは宇宙全体に深く響きわたる声でした。そしてこう告げられたのです。
「あなたが所属する村を探したのですが、見つかりませんでした。あなたはもう一度、地球に戻ることになりました」
そこで私の意識は一瞬にして肉体に戻り、目が覚めました。そこがロンドンの、あの救急病院だったのです。あれからずいぶん後になってわかったことですが、‘所属する村’とは、おそらくグループソウルのことだったのでしょう。
もうひとつ、あの経験から何年も経ってから気づいたことですが、グレイエーリアンというのは、別に悪い奴らではなく、むしろ人間が死に至るまでに、最大の恐怖を浄化するプロセスを手伝ってくれる役目があるのではないかということです。私たちが魂の故郷に帰還するイニシエーション(通過儀礼)に関わってくれる存在たちが、きっと彼らなのです。そういう意味では、「コミュニオン」(扶桑文庫、1994)というグレイエーリアンについての小説を書いたウィットリー・ストリーバーという作家の結論的な気づきと同意見ということになります。
プレアデスの存在たちが、いつか教えてくれたことがあります。それは、私たち人間が死に直面する際に、彼ら(プレアデス星人)も必ずそのプロセスを誘導するために関わるということです。ということは、だれでも遅かれ早かれみんな彼らと遭遇するということになります。だとすれば、私の彼らとの最初の遭遇は、ロンドンで経験したあの臨死体験から始まっていたのかもしれません。いえ、ひょっとすると、私が幼いころに腸チフスにかかり、生死の境をさ迷っていたときから始まっていたのかもしれない、ということです。
あのときの記憶がもっと鮮明な時期に記録しておけば、今こうして思い出せる内容よりも詳しく残っていただろうと思うことがよくありますが、それと同時に忘れたいという気持ちが常にありました。現実生活とまったくつじつまが合わない経験だったからです。経験直後は、あの経験以前の自分のすべてを、一か月ほど思い出せないくらいのショック状態に陥っていたことはたしかです。
臨死体験を経験した人たちが、その後劇的に人生が変わり、必然的にスピリチュアルな生き方を探求するようになると、よくいわれています。あの世を垣間見たショックは、この世の価値観を一変させ、あのトラウマ的な体験が偶然に起きたのではないことを、体験者はいずれ悟ることになるのだと思います。そして、あの世で体験したことの方が、この世で起きることよりもはるかにリアルで意味深いと捉えるようになるのでしょう。いつの日かあの世に再び戻るまでは、できるだけ意味深い生きた方をしようとするようになるでしょう。すなわち、常に死を身近に感じられる生き方へと切り替わるのです。仏教でいうところの諸行無常を、身をもって知るに至る、ということです。これがスピリチュアルな生き方の基盤かもしれません。
臨死体験後のシンクロに導かれて
さて、あのような体験をした直後の私は本来ならば、精神科医かセラピストのお世話にならなければならない状態でした。しかし、彼らは誰一人として私を癒すこともできなければ、あのとき私に囁きかけた声の存在に会わせてくれることなどできるはずがないと、私は確信していました。私はあの時以来、ずっと今日まで目に見えない糸で導かれながら、次から次へと多くの精神性豊かな人々との出会いがありました。その目に見えない糸とは、シンクロニシティの計らいです。
その計らいによって、あの経験から間もなくして私は、ロンドンの街で運よく魔術師(私がそう呼んでいる)アルフレードに発見され、数時間内に奇跡的にも記憶喪失から解き放されたのです。それどころか、彼の導きによって前世の記憶まで甦らせることができました。と同時に完全なサマーディ(覚醒状態)を体験したのです。残念ながらその状態はわずか数週間しか続かなかったのですが、その間思考が完全に静止していました。その上、睡眠や夢を見る必要もまったくなく、目を開いたまま横たわり、体を休めるだけでした。至福に満ちたワンネスだけの世界です。
それから徐々に私は俗世界に落ちていきました。もがけばもがくほど沈んでいくようななんともいえない最低の気分を味わいながら、日増しに自分が堕天使のように思えてきました。あれは一時的な覚醒にすぎなかったのです。考えてみると、たった19才の私にはまだまだ俗世界で学ばなければならないことがたくさんあったからです。とはいえ、あのときから私はアルフレードの弟子になり、不思議な魔法の世界を出入りする方法を学び始めていたのです。
ロンドン? 魔法? ハリーポッターの世界じゃないか、って思われる方もおられるでしょうが、実際にロンドンという街は、パリやプラハ、トリノと並んで中世期の錬金術が栄えただけあって、不思議なパワーを秘めたスポットが実際に現代でもあちこちに点在している街なのです。住んでみないと、普通の観光では決して発見できないですが。
アルフレードに教わる魔法のレッスンは、たいていは戸外で行なわれました。まずは歩きながら、パワースポットを見つけることから始まります。明らかに異質のエネルギーに満ちた直径1メートル半くらいの円形エリアが見つかるのです。それらを発見する度にその中に入ったり出たりしながらその日のレッスンに相応しい力を与えてくれる、文字通りパワースポットを探し当てるのです。そのあと様々な術を彼は私に伝授してくれました。
不思議としかいいようのない世界に彼は私を導いてくれました。そんなある日、ひょっとすると魔法は私独自の力ではなく、彼の力によって起きているのではないかという疑いが私の心に生じたのです。それとほぼ同時期に、彼は私の前から姿を消しました。若さがゆえの純粋無垢な心が、超自然の教えを素直に吸収できたのです。そういう意味では、あの頃が私の人生で最高のクレシェンドだったのかもしれません。
あれから少し時が流れてから、私の夫となるエハン・デラヴィに、これまた奇遇な巡り合せによって結ばれることになりました。正直なところ、それは私にとって偉大な魔術師になるという生涯をかけた、途方もなく現実離れした冒険の夢を断念しての決断でした。アンデス山脈のどこかに存在する異次元の扉までいつかアルフレードが案内してくれる、という約束まで交わしていたからです。
しかし、その時期が訪れるまでは、まずは普通の人間としての経験が必要だと、直観的に私は悟り、結婚という道を選びました。それが二十歳そこそこの私の思考だったのです。たしかにあの臨死体験以来、私が何歳であれ関係なく、必要に応じて賢い老婆のような英知が与えられることがあるのです。それが私自身の‘ハイアーセルフ’であることに、後に私は理解するに至りました。
私と夫との接点とは、最初から形而上学であり、いわゆる精神世界のことでした。こういうとうらやましがられるかもしれませんが、とんでもございません。二人そろって現実生活においてはビギナーズどころではなく、相当なハンディキャップ同士だったのです! これが解る頃には、すでに三人の子供たちが誕生していました。
実は彼こそ、まさしく堕天使なのです。あきれてしまうほど、人間界に慣れていない人なのです。妻である私がそれをいちばんよく知っています。私たち夫婦にとって、いかにスピリチュアリティを現実生活に融合させるか、これが四十数年間片時もなく継続させてきた共通かつ究極のテーマであり、ときとして辛い学びでもあるわけです。
私は夫と巡り会えたことによって今日にいたるまで、世界中の注目すべき人々に直接会うチャンスにも恵まれ、また様々な専門分野の優れた研究家たちから多くの知識を与えられるという、とても意味深い人生コースを歩むことになりました。その知識の中には、若い頃にアルフレードが私に見せてくれた世界を、論理的に説明づけてくれる学者まで含まれていました。ちゃんとシンクロニシティによって導かれているのですね。
むろん、夫のエハン自身から私が得た知識や情報は、40年という長い歳月を通して無限に等しいほど莫大な量です。とりわけ、私がいちばん彼に感謝しているのは、スコティッシュ特有の明るさで何事も積極的に捉え、また躊躇せずに行動に移せるという、本来私に欠けていたクオリティを譲り受けたことです。

2015年03月31日
魂の旅 その10 共時性に生きる

数字の共時性を追っていく学びは、
ある日は3ならば、次回は17といったように、
その日最初に出会った数字をもとに
ランダムに展開していった。
目の前に現れた数字と同じ数を
数日後にまた追うこともあった。
そうしているうちに特定の数字に対して
友だちのような感覚が生まれてきた。
中にはとっつきにくくて、
私たちを避けているような数も発見した。
ぴょんぴょん跳ねるような性格の数、
おとなしくて親しみやすい数、
さらには関係性の深い色を示してくれる数、
数そのものが持つバイブレーションを
私は感じ取れるようにだんだんなっていった。
すると共時性を追うことから
数のほうから進んで現れてくれるといった
なんとも奇妙な状態に入っていった。
『なるほど、これをアルフレードは
私に経験させるためだったのか』
まさに引き寄せを自由に操るレッスンとして、
数の性質を感じ取り、知ることから始めたわけだ。
アルフレードは天体の動きにも詳しかった。
ある時彼のアパートを訪ねると、
妙な顔をして空っぽになったジャムの瓶を、
2つ私に見せてくれた。
「金星のせいだよ。
金星が空のあの位置にくると、
決まってこうなるんだ」
アルフレードは窓を開けて、
空で一際輝いている星を指さして私に示した。
「パンにつけて食べたのですか?」
「いや、ジャムだけだ」
『なんと変わっている・・・』
内心私はそう感じたが黙っていた。
アルフレードの食生活は常に、
天体の動きに合わせたものであることに、
やがて私は気づくようになっていった。
それ以上に驚いたのは、
彼の生き方は、
いつもサインが現れるのを待ってから、
シンクロの導きによって行動に移すことだった。
自らの自我に任せた行動は、
ほとんどとらないに等しかった。
つまり、私にナンバーのレッスンを、
手ほどきしてくれたような方法で
なにごとに対しても彼は常に行動していた。
「人間は自我に振り回されて、
実に無駄な行動をとるようになった。
ちゃんとサインが送られてくる前に
腰を上げるから、
すべてのタイミングがずれて、
混乱を自ら招くようになる」
これは私にとって生涯かけがいのない教えとなった。
私は30年近く前から再び
シャーマンと呼ばれる北中南米の先住民たちから
個人的に教えを受ける機会に度々恵まれたが、
彼らすべてに共通する基本は、
この教えだった。

2015年03月28日
魂の旅 その9 数秘のレッスン

ロンドンで生活していた当時19才の私は、
アルフレードによって
壊れかけていた自分の意識をちゃんと戻してもらったばかりか、
とてつもなく不思議な、
今風にいえばシャーマン世界への扉を開くことになった。
思考と世界を静止させる方法を彼から学んだのである。
その世界は今でもまれに、
瞑想をすると瞬間的に訪れることはあるが、
もはやほとんど経験することはない。
ホーランドパークでパワースポットを探したあの時から
私は彼が見せてくれた世界に夢中になり、
学校が終わってから何度も彼のところに足を運んだ。
シェパードブッシュでバスを降りてから、
同じような建物が並ぶ近辺を通り過ぎて
彼のアパートに向かおうとしたが、
不思議と見つからないことを何度も経験した。
まるで迷路に迷い込んだかのように探せなかった。
実際にアルフレードという人物が
存在するのかさえ疑うこともあった。
すべては夢の中の出来事だったのか?
私はあきらめて家に戻っていった。
そうして一か月も過ぎることすらあった。
どうしても会いたくてまた彼の家に足を運んだ。
今日は絶対に会えるという予感があったときだけ
彼の住処を見つけることができた。
一階の入り口でベルを鳴らすと、
彼は降りてきてくれた。
「今日は私のアトリエに行くかい?」
その日は部屋の四隅から波打つ音が聞こえる
彼のアパートに立ち寄らずに
一時間ほどまた例の如く互いに一言も語らず歩いた。
アルフレードのアトリエは、
たしかあるビルの地下にあった。
中は広くて5、6人の若者たちがいた。
部屋の中央にはエッチング用の機械が置いてあった。
皆はそれぞれ作品をつくっていた。
アルフレードは私にひとり一人を紹介してくれた。
アルゼンチン、コロンビア、メキシコ人など、
全員中南米の若者たちだった。
彼らは皆アルフレードといっしょに
パリからロンドンに移り住んだという。
周囲には個性あふれる模様の銅板が、
壁を埋め尽くしていた。
それらすべての作品は、
彼ら全員の生活を支えている売り物であることに
私は気づいた。
たしかポルトベロロードのある店にも
エッチングされた銅板が額縁されて
置かれていたのを私は思い出した。
同じ方法で削られて裏に皮がついた腕輪も
あちこちのお店で見たのを私は思い出した。
『なるほど、アルフレードの仕事はこれなのか・・・』
不思議なアルフレードではあるが、
少し現実味が帯びてきた。
しかし、彼の弟子たちは皆私のことを
気に入っていないとすぐに私は気づいた。
皆彼の仕事仲間というだけではなく、
それぞれが彼の魔法の授業の生徒であることも
すぐにわかった。
要するに私が最近、
先生を独り占めにしていることが、
気に食わなかったのである。
皆のことを察したのかアルフレードは、
「彼女なかなか素質があるんだ」
と、弁解するような口調でいった。
彼の言葉を誰もが無視しているように思えた。
私たちはアトリエを後にして外に出た。
アルフレードと私の沈黙の了解は、
外を歩くときは言葉を必要以外交わさないことと、
意識は人やモノに集中させないこと、
そして、世界が静止する状態へと
なるだけ早く辿り着くことだった。
そのためにパワースポットをまず見つけて、
その中で世界が変わるように導くことだった。
そのあとアルフレードは、
たいてい学びの課題を与えてくれた。
その日はナンバーだった。
今風にいえば数秘のレッスンである。
12番のバスがむこうからやってきた。
「あれだ!」と彼はいった。
バスが目の前の停留所に止まると、
私たちはそのバスにとび乗った。

そのあとシンクロの運びと共に
私たちはひたすら12というナンバーを追い続けた。
『もう夜が明けそうになっているのに、
いつまでこのゲームは続くのだろう・・・』
私は疲れながらそろそろいやになってきていた。
「さあ、今日はこれくらいにしようか。
12のことが見えてきたかい?」
私は、「いや、なにも」
という顔で彼を見つめた。
「眠りにつくと12からきっとメッセージが届くよ」
あの日のレッスンはほとんど思い出せないが、
あのあとアルフレードと別れてから、
ベッドに入った私は不思議な夢を見た。
それだけ今でも覚えている。
アルフレードとは、
あれからまたなかなか会えない状態が続いた。
そして次に出会えた時は、
また異なるナンバーをシンクロで追う。
これが数か月も続いたのちに、
今度は動物を知るレッスンへと変わっていった。

2015年03月12日
魂の旅 その8 パワースポットを探せ
~飛べるかどうか疑った瞬間にその能力は永久に消える~
ジェームス・マシュー・バリー(ピーターパンの作者)
アルフレードは滅多に語りかけてくれなかった。
しかし語ったときは、
すばらしい教えに満ちていた。
「禅は無に到達する道だが、
魔法はそこからスタートする」
彼に教わる魔法の授業はほとんど野外で行なわれた。
バスにも滅多に乗ることもなく、
ひたすらロンドンの街を二人で歩いた。
私たちはやっとホーランドパークに入った。
思考が止まった世界は、
動いていても周りの世界が静止したように感じられる。
周囲の音もどれひとつ気を引くほど大きくは聞こえない。
すべてが調和と静けさを保っている。
それを乱さないように
彼と一緒にゆっくりと私は公園内を歩いていた。
「まずは、パワースポットを探そう」
と、彼は突然沈黙を切った。
彼が一つ見つけた。
公園の中のある場所を彼は指さし、
私たちはそこに向かった。
彼が示した場所に着くと、
そこは公園の他の場所とまったく変わらなく、
緑の芝生が生えていた。
これといって目立って特別な場所ではなかった。
じっとその場所を見つめるように
アルフレードは私に指示した。
すると
直径2メートルくらいの円形範囲が、
かすかに浮いていて、
さざ波が立っているのが瞬間的に見えた。
まるで3Dトリックの絵の中に、
あるイメージが浮いて見えるような感じだった。
彼は私にその中に入るように言った。
その目に見えない円形に入ったり、
出たり繰り返してみるようにと。
たしかにその円の中に入ると、
思考が止まった状態が強化され、
崩れそうになりかけていた別の世界に
ちゃんといられるパワーを得ることができた。
「パワースポットだよ、
他にもあるから今度は自分で探してごらん」
言われるとおりにして、
何ヶ所か同じような不思議な円のスポットを、
公園内に私は見つけることができた。
パワースポットを見つけるコツがわかると、
次はその中で透明人間になる方法を
アルフレードは教えてくれた。
どのようにそれができるようになったのか?
その方法を後に思い出すことはできなかった。
彼に導かれて入っていった別の世界のことは、
まるで夢に近いほどこの次元では記憶として
はっきりと残すのは不可能だった。
ただ透明人間になることができた自分は、
公園内を裸で歩いても誰も気づくことはないという
自信に満ちていた。
実際に円の中から出て歩くと、
誰も私たちを見たり、振り向いたりする
通りすがりの人たちはいなかった。
「けして誰とも目を合わせてはいけないよ」
私はアルフレードの言葉をちゃんと守りながら、
まるで自分が裸の王様になったような気分だった。
私たちはベンチに腰掛けた。
小道を隔てた向かい側に老人の男性が,
座りながら新聞を読んでいた。
「ほおら見てごらん。情報が好きなんだ・・・彼は」
アルフレードはまるで珍しい動物か昆虫を
観察しているかように、
その老人について私に一言述べたあと、
しばらくその老人を私たちは観察していた。
それからまた別の場所に移動して
他の人間やクジャクを観察した。
別のパワースポット探しもした。
あのような特別のパワーを
受け取ることができる、
直径二メートルくらいのパワースポットは、
日本でも私はなんどか見つけたことがある。
何の気なしに訪れた神社の境内に、
そんな場所が隠れていることがある。
それにしてもロンドンの街には、
そんなパワースポットがところかまわず
散らばっていた。
私がそれを見つける能力が薄れたのかもしれない。
アルフレードから教わる魔法の授業の基本は、
パワースポットを見つけて、
別世界に居続けるパワーを充電することだった。
そして、静かに座っていると
部屋の四隅から
まぎれもなく波打つ音が常に聞こえてきた
アルフレードの小さな屋根裏部屋も、
他とは違う特別のパワースポットだった。
ジェームス・マシュー・バリー(ピーターパンの作者)
アルフレードは滅多に語りかけてくれなかった。
しかし語ったときは、
すばらしい教えに満ちていた。
「禅は無に到達する道だが、
魔法はそこからスタートする」
彼に教わる魔法の授業はほとんど野外で行なわれた。
バスにも滅多に乗ることもなく、
ひたすらロンドンの街を二人で歩いた。
私たちはやっとホーランドパークに入った。
思考が止まった世界は、
動いていても周りの世界が静止したように感じられる。
周囲の音もどれひとつ気を引くほど大きくは聞こえない。
すべてが調和と静けさを保っている。
それを乱さないように
彼と一緒にゆっくりと私は公園内を歩いていた。
「まずは、パワースポットを探そう」
と、彼は突然沈黙を切った。
彼が一つ見つけた。
公園の中のある場所を彼は指さし、
私たちはそこに向かった。
彼が示した場所に着くと、
そこは公園の他の場所とまったく変わらなく、
緑の芝生が生えていた。
これといって目立って特別な場所ではなかった。
じっとその場所を見つめるように
アルフレードは私に指示した。
すると
直径2メートルくらいの円形範囲が、
かすかに浮いていて、
さざ波が立っているのが瞬間的に見えた。
まるで3Dトリックの絵の中に、
あるイメージが浮いて見えるような感じだった。
彼は私にその中に入るように言った。
その目に見えない円形に入ったり、
出たり繰り返してみるようにと。
たしかにその円の中に入ると、
思考が止まった状態が強化され、
崩れそうになりかけていた別の世界に
ちゃんといられるパワーを得ることができた。
「パワースポットだよ、
他にもあるから今度は自分で探してごらん」
言われるとおりにして、
何ヶ所か同じような不思議な円のスポットを、
公園内に私は見つけることができた。
パワースポットを見つけるコツがわかると、
次はその中で透明人間になる方法を
アルフレードは教えてくれた。
どのようにそれができるようになったのか?
その方法を後に思い出すことはできなかった。
彼に導かれて入っていった別の世界のことは、
まるで夢に近いほどこの次元では記憶として
はっきりと残すのは不可能だった。
ただ透明人間になることができた自分は、
公園内を裸で歩いても誰も気づくことはないという
自信に満ちていた。
実際に円の中から出て歩くと、
誰も私たちを見たり、振り向いたりする
通りすがりの人たちはいなかった。
「けして誰とも目を合わせてはいけないよ」
私はアルフレードの言葉をちゃんと守りながら、
まるで自分が裸の王様になったような気分だった。
私たちはベンチに腰掛けた。
小道を隔てた向かい側に老人の男性が,
座りながら新聞を読んでいた。
「ほおら見てごらん。情報が好きなんだ・・・彼は」
アルフレードはまるで珍しい動物か昆虫を
観察しているかように、
その老人について私に一言述べたあと、
しばらくその老人を私たちは観察していた。
それからまた別の場所に移動して
他の人間やクジャクを観察した。
別のパワースポット探しもした。
あのような特別のパワーを
受け取ることができる、
直径二メートルくらいのパワースポットは、
日本でも私はなんどか見つけたことがある。
何の気なしに訪れた神社の境内に、
そんな場所が隠れていることがある。
それにしてもロンドンの街には、
そんなパワースポットがところかまわず
散らばっていた。
私がそれを見つける能力が薄れたのかもしれない。
アルフレードから教わる魔法の授業の基本は、
パワースポットを見つけて、
別世界に居続けるパワーを充電することだった。
そして、静かに座っていると
部屋の四隅から
まぎれもなく波打つ音が常に聞こえてきた
アルフレードの小さな屋根裏部屋も、
他とは違う特別のパワースポットだった。

2015年03月11日
2015年03月11日
魂の旅 その7 魔術師アルフレードから学ぶ
アルフレードとの出会いによって、
私は臨死体験に伴う一時的な記憶喪失から回復できた。
そればかりかこの人生の始まり時点まで記憶が遡った。
自分の手のひらを見つめていると、
五歳のときの自分の手、
生まれたばかりの自分の手、
すべてその時見つめていた手のひらと一致した。
深い層の記憶を甦らせることができたのだった。
そのときの経験を今となって表現するのは無理だ。
自分の手のひらを見つめていると同時に、
記憶喪失になるまでの人生で起きたことが、
パッパッとまるでカメラのシャッターが下りるように甦り、
そのとき見つめていた自分の手のひらと一致するのを
強烈な感覚で認識できた。
あれから43年近く経った今となっては、
それ以上あまり描写できない。
あのときたしか、さらに手のひらを見つめていると、
自分の過去世と思われるいくつかの記憶までが、
パッパッと様々なシーンとして現れたのである。
それは過去、現在、未来といった時間の幻想から
完全に脱出できた束の間の体験だった。
記憶喪失に伴うどん底にいた私は、
単なる直観の導きだけで、
まったく見知らぬ男性についていった。
彼の小さな部屋に辿りつき、
お茶を出してもらってその場で座ってから
気づかないうちに長い時間が経過していた。
夜中の十二時をとっくに過ぎていた。
アルフレードが送ってくれるというので、
私たちはゆっくりと歩き始めた。
ハイドパークを抜けてケンシントンの私のアパートまで、
二時間ほど無言で歩き続けた。
私のアパートの前までやって来ると、
「この世界は今までの世界とちがって、
外と内なる世界が完璧なバランスで保たれているんだ。
今までずっとそこにあったのだけど、
君は今日その入口を見つけた。
君が見つけたんだよ、夕日の力を借りてね」
彼はそう私に告げてから帰っていった。
アルフレードから教わったことは、
これがほんの入り口にすぎなかった。
ロンドンで私は魔術師アルフレードの元で
さまざまな魔法をその時から学ぶことになった。
あのときアルフレードと別れてから、
私は自分のアパートで床に就いたが、
眼は閉じることはなかった。
思考が完全に止まっていた。
目を開けたまま体だけを休める。
これが一週間ほど続いた。
夢見ることも思考もない。
いわゆる‘サマーディ状態’を、
何日間も持続させることができた。
おそらく人生でいちばん澄み切った経験だった。
不思議なパワーに満ちている自分が感じられた。
というよりも自分はいなかった。
あるいは自分はすべてだった。
その一週間ほどの間に私は、
自分の腹にまるい地球を抱えているように
感じられるときがあった。
私は地球の母なのだ。
地球の悲しみもすべてを抱擁していた。
すべては自分の責任という深い感覚が何度か押し寄せてきた。
そうしているうちにまるで落下するように、
元の意識状態がじわじわと襲ってきた。
‘サマーディ状態’と普通の意識が交互に入れ替わる。
‘サマーディ状態’を求めるとどんどんそれは消えていった。
まるで自分が落下した天使のように感じられた。
そんな状態が一か月ほど続いたある時突然にして、
「ジョン・レノンが殺される」
という確信的な言葉が頭をよぎった。
これは大変だ。
どうにかして彼に知らせなければならない。
そんな使命感から私は、
当時ロンドンにあったビートルズのレコード会社だった
アップルに手紙を書いて送ったほどだった。
そのときから実際に彼が殺されたのは9年後となった。
今自らの人生を振り返ると、
あの時の強烈なサマーディ体験に戻るために
あれこれとずっと
スピリチュアルな世界を探求し続けてきたようだ。
あの臨死体験、
ロンドンの自由気ままな生活、
そして言うまでもなく、
アルフレードとの出会い、
この三つの組み合わせによって、
19歳だった私は並外れの数々の経験をすることになった。
私はアルフレードと出会った一か月ほど後にまた
彼のアパートを訪ねた。
またじっと座って瞑想するようにと指示された。
無言で座っていると、
またあの時のように、
部屋の四隅から波が打ち寄せるような音が聞こえ始めた。
「しゃべってはならない」
無言で彼の後について私は外に出た。
「いいかい、その世界を保ちながら、
人を観察しよう。
主観を外して人を観察するのだ。
ホーランドパークに行こう。
その前に目立たないように、
まず透明人間になる術を教えよう。」
私は臨死体験に伴う一時的な記憶喪失から回復できた。
そればかりかこの人生の始まり時点まで記憶が遡った。
自分の手のひらを見つめていると、
五歳のときの自分の手、
生まれたばかりの自分の手、
すべてその時見つめていた手のひらと一致した。
深い層の記憶を甦らせることができたのだった。
そのときの経験を今となって表現するのは無理だ。
自分の手のひらを見つめていると同時に、
記憶喪失になるまでの人生で起きたことが、
パッパッとまるでカメラのシャッターが下りるように甦り、
そのとき見つめていた自分の手のひらと一致するのを
強烈な感覚で認識できた。
あれから43年近く経った今となっては、
それ以上あまり描写できない。
あのときたしか、さらに手のひらを見つめていると、
自分の過去世と思われるいくつかの記憶までが、
パッパッと様々なシーンとして現れたのである。
それは過去、現在、未来といった時間の幻想から
完全に脱出できた束の間の体験だった。
記憶喪失に伴うどん底にいた私は、
単なる直観の導きだけで、
まったく見知らぬ男性についていった。
彼の小さな部屋に辿りつき、
お茶を出してもらってその場で座ってから
気づかないうちに長い時間が経過していた。
夜中の十二時をとっくに過ぎていた。
アルフレードが送ってくれるというので、
私たちはゆっくりと歩き始めた。
ハイドパークを抜けてケンシントンの私のアパートまで、
二時間ほど無言で歩き続けた。
私のアパートの前までやって来ると、
「この世界は今までの世界とちがって、
外と内なる世界が完璧なバランスで保たれているんだ。
今までずっとそこにあったのだけど、
君は今日その入口を見つけた。
君が見つけたんだよ、夕日の力を借りてね」
彼はそう私に告げてから帰っていった。
アルフレードから教わったことは、
これがほんの入り口にすぎなかった。
ロンドンで私は魔術師アルフレードの元で
さまざまな魔法をその時から学ぶことになった。
あのときアルフレードと別れてから、
私は自分のアパートで床に就いたが、
眼は閉じることはなかった。
思考が完全に止まっていた。
目を開けたまま体だけを休める。
これが一週間ほど続いた。
夢見ることも思考もない。
いわゆる‘サマーディ状態’を、
何日間も持続させることができた。
おそらく人生でいちばん澄み切った経験だった。
不思議なパワーに満ちている自分が感じられた。
というよりも自分はいなかった。
あるいは自分はすべてだった。
その一週間ほどの間に私は、
自分の腹にまるい地球を抱えているように
感じられるときがあった。
私は地球の母なのだ。
地球の悲しみもすべてを抱擁していた。
すべては自分の責任という深い感覚が何度か押し寄せてきた。
そうしているうちにまるで落下するように、
元の意識状態がじわじわと襲ってきた。
‘サマーディ状態’と普通の意識が交互に入れ替わる。
‘サマーディ状態’を求めるとどんどんそれは消えていった。
まるで自分が落下した天使のように感じられた。
そんな状態が一か月ほど続いたある時突然にして、
「ジョン・レノンが殺される」
という確信的な言葉が頭をよぎった。
これは大変だ。
どうにかして彼に知らせなければならない。
そんな使命感から私は、
当時ロンドンにあったビートルズのレコード会社だった
アップルに手紙を書いて送ったほどだった。
そのときから実際に彼が殺されたのは9年後となった。
今自らの人生を振り返ると、
あの時の強烈なサマーディ体験に戻るために
あれこれとずっと
スピリチュアルな世界を探求し続けてきたようだ。
あの臨死体験、
ロンドンの自由気ままな生活、
そして言うまでもなく、
アルフレードとの出会い、
この三つの組み合わせによって、
19歳だった私は並外れの数々の経験をすることになった。
私はアルフレードと出会った一か月ほど後にまた
彼のアパートを訪ねた。
またじっと座って瞑想するようにと指示された。
無言で座っていると、
またあの時のように、
部屋の四隅から波が打ち寄せるような音が聞こえ始めた。
「しゃべってはならない」
無言で彼の後について私は外に出た。
「いいかい、その世界を保ちながら、
人を観察しよう。
主観を外して人を観察するのだ。
ホーランドパークに行こう。
その前に目立たないように、
まず透明人間になる術を教えよう。」

2014年08月01日
魂の旅 その6 魔術師アルフレードに救われて
私自身の過去について「魂の旅」というシリーズで投稿しています。
前回の「その5」では、19才の時にロンドンにて臨死体験をし、
その衝撃によって一時的に記憶喪失となった。
そして、ある土曜日の昼下がりにポルトベロロードで、
アルフレードという男性に偶然に出会い、
私の精神状態を一瞬にして見抜いた40才ぐらいの
その見知らぬ男性の後を私はついていった。
というところまでお話しました。(5月15日投稿)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その人の名前はアルフレード・ボネット。
パリで8年間暮らしてからロンドンに移り住んだという
南米アルゼンチン出身の芸術家である。
白人ではなく、自分はインディオだと彼はいった。
簡単な自己紹介をしてくれているうちに、
あたり一帯にフラットがたくさん立ち並んでいる
一角にある建物の扉を彼は開けた。
狭い階段を五階ほど登った小さな屋根裏部屋が、
アルフレードの住処だった。
彼は買ったばかりのティーポットにお茶を入れてくれて、
厚くスライスしたライ麦パンのトーストに
たっぷり蜂蜜をのせて私に出してくれた。
彼の部屋の窓からは、
夕日が真っ赤に空を染めているのが眺められた。
「なんて、きれいな夕日」
と私が言うと、
「あの夕日のパワー、感じられる?
そのエネルギーを吸収することにしよう。
話さないように、沈黙でね」
アルフレードはそういうと、
私の向かい側にあぐらをかいて座った。
私たちは向き合ってずっと静かに座った。
そのまま一時間ぐらい経過した頃だっただろうか、
あたりは妙に静まり返っていた。
しばらくすると、私たちがいる小さな部屋の四隅から、
まるで海辺近くにいるように波の音が微かに聞こえてきた。
次第にそれはまるでビーチにでも座っているかのように、
ザーザーと押し寄せては引いていく潮として
はっきりと聞こえてきたのだった。
「一体、これはなに?」
私は黙ってはいられなくなって彼に尋ねてみた。
「しーっ、黙ってその音にだけ集中しなさい」
と、アルフレードはひとことだけ私に忠告した。
私たちはそのまま静かに座り続けた。
すると、今度はどこからともなく一匹のハエが
その部屋の中を飛んでいる音がした。
ブーンとそのハエは音を立てながら、
部屋の窓際の観葉植物がおいてあるあたりを、
飛んでいるのが私の目にとまった。
「見つめちゃだめだよ、
今の君よりもあいつのほうが強いんだから。
波の音に集中しなさい」
またアルフレードは私にそのように忠告した。
すっかり日が落ちると、
ゆっくりと彼は立ち上がり、
灯した蝋燭を私たちが座っている間に置いた。
「さあ、お茶を飲みなさい。
でも、あの音に集中したままだよ」
『この人はマジシャンだろうか?
それともあの変わった形のティーポットが
そうさせているのだろうか?』
心の中でそんな疑問を抱きながら、
私は冷たくなったお茶をすすった。
それを見た彼は、
「君は日本人なの?
そんなふうにお茶を飲むなんて。
腕が曲がって、カップに手が届き、
口元までお茶が運ばれる。
そして口に含んだお茶が喉を通って流れていく。
君はそれを観察しながらお茶を飲まないの?」
と、アルフレードは私にいった。
私は彼の言うとおりにして、
もう一口ゆっくりとお茶を飲んだ。
カップをもとの位置に置くと、
彼はもう一言私にいった。
「今度は蝋燭の明かりで出来た自分の影を見ながら、
もう一度飲んでごらん」
彼はもう一杯お茶を注いでくれた。
私は蝋燭の炎で揺らいでいる自分の影を見つめながら、
ゆっくりといわれたとおりにしてお茶を口にふくんだ。
ちょうどカップを戻そうとしたとき、
信じられないようなことが起きた。
その瞬間私は失われていた自分の記憶を、
はっきりとよみがえらせたのである。
カップを置いたその手が小さな生まれたばかりの私の手、
5才の時の手、今の自分の手とすべてつながっている、
なんとも不思議な感覚を覚えた。
思わず私は両手を広げて、
「わあ、私はずっと生きていたんだ。これも同じ私の手!」
私はそう叫ぶと、大きなあくびをした。
「いやあ、私は今まで眠っていたのですか?
はっきりと目覚めました、先生!」
この瞬間に私は過去、未来といった
時間のイルージョンから完全に脱出できたのである。
おこがましいかもしれないが、
完全に覚醒する自分を体験していた。
その瞬間に一時的に喪失していた今生の記憶が蘇ったばかりではなく、
今から思えば前世とも思える記憶が、
パッ、パッとまるでカメラのシャッターを下ろすように
すばやく何シーンか頭の中に現れるのを経験した。
何ともたとえようのないすっきりとしたあの時の感覚は、
その後も一生忘れられるものではなかった。
私の人生の最高の経験となった。
アルフレードの小さな部屋の時計に目をやると
夜中の2時をまわっていた。
夕暮れからその時までじっと座っていた自分に気づいた。
「その世界を保ちながら、そっと立ってごらん」
と彼は言った。
私たちはゆっくりと歩きながら、
ハイドパークを抜けてケンシントンにある私のアパートまで、
二時間ほど無言で歩き続けた。
私のアパートの前までやって来ると、
「この世界は今までの世界とちがって、
外と内なる世界が完璧なバランスで保たれているんだ。
今までずっとそこにあったのだけど、
君は今日その入口を見つけた。
君が見つけたんだよ。夕日の力を借りてね」
彼はそういってから帰っていった。
アルフレードから教わったことは、
私にとってこれがほんの入り口にすぎず、
ロンドンで私は魔術師アルフレードの元で
さまざまな魔法をその時から学ぶことになった。
前回の「その5」では、19才の時にロンドンにて臨死体験をし、
その衝撃によって一時的に記憶喪失となった。
そして、ある土曜日の昼下がりにポルトベロロードで、
アルフレードという男性に偶然に出会い、
私の精神状態を一瞬にして見抜いた40才ぐらいの
その見知らぬ男性の後を私はついていった。
というところまでお話しました。(5月15日投稿)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その人の名前はアルフレード・ボネット。
パリで8年間暮らしてからロンドンに移り住んだという
南米アルゼンチン出身の芸術家である。
白人ではなく、自分はインディオだと彼はいった。
簡単な自己紹介をしてくれているうちに、
あたり一帯にフラットがたくさん立ち並んでいる
一角にある建物の扉を彼は開けた。
狭い階段を五階ほど登った小さな屋根裏部屋が、
アルフレードの住処だった。
彼は買ったばかりのティーポットにお茶を入れてくれて、
厚くスライスしたライ麦パンのトーストに
たっぷり蜂蜜をのせて私に出してくれた。
彼の部屋の窓からは、
夕日が真っ赤に空を染めているのが眺められた。
「なんて、きれいな夕日」
と私が言うと、
「あの夕日のパワー、感じられる?
そのエネルギーを吸収することにしよう。
話さないように、沈黙でね」
アルフレードはそういうと、
私の向かい側にあぐらをかいて座った。
私たちは向き合ってずっと静かに座った。
そのまま一時間ぐらい経過した頃だっただろうか、
あたりは妙に静まり返っていた。
しばらくすると、私たちがいる小さな部屋の四隅から、
まるで海辺近くにいるように波の音が微かに聞こえてきた。
次第にそれはまるでビーチにでも座っているかのように、
ザーザーと押し寄せては引いていく潮として
はっきりと聞こえてきたのだった。
「一体、これはなに?」
私は黙ってはいられなくなって彼に尋ねてみた。
「しーっ、黙ってその音にだけ集中しなさい」
と、アルフレードはひとことだけ私に忠告した。
私たちはそのまま静かに座り続けた。
すると、今度はどこからともなく一匹のハエが
その部屋の中を飛んでいる音がした。
ブーンとそのハエは音を立てながら、
部屋の窓際の観葉植物がおいてあるあたりを、
飛んでいるのが私の目にとまった。
「見つめちゃだめだよ、
今の君よりもあいつのほうが強いんだから。
波の音に集中しなさい」
またアルフレードは私にそのように忠告した。
すっかり日が落ちると、
ゆっくりと彼は立ち上がり、
灯した蝋燭を私たちが座っている間に置いた。
「さあ、お茶を飲みなさい。
でも、あの音に集中したままだよ」
『この人はマジシャンだろうか?
それともあの変わった形のティーポットが
そうさせているのだろうか?』
心の中でそんな疑問を抱きながら、
私は冷たくなったお茶をすすった。
それを見た彼は、
「君は日本人なの?
そんなふうにお茶を飲むなんて。
腕が曲がって、カップに手が届き、
口元までお茶が運ばれる。
そして口に含んだお茶が喉を通って流れていく。
君はそれを観察しながらお茶を飲まないの?」
と、アルフレードは私にいった。
私は彼の言うとおりにして、
もう一口ゆっくりとお茶を飲んだ。
カップをもとの位置に置くと、
彼はもう一言私にいった。
「今度は蝋燭の明かりで出来た自分の影を見ながら、
もう一度飲んでごらん」
彼はもう一杯お茶を注いでくれた。
私は蝋燭の炎で揺らいでいる自分の影を見つめながら、
ゆっくりといわれたとおりにしてお茶を口にふくんだ。
ちょうどカップを戻そうとしたとき、
信じられないようなことが起きた。
その瞬間私は失われていた自分の記憶を、
はっきりとよみがえらせたのである。
カップを置いたその手が小さな生まれたばかりの私の手、
5才の時の手、今の自分の手とすべてつながっている、
なんとも不思議な感覚を覚えた。
思わず私は両手を広げて、
「わあ、私はずっと生きていたんだ。これも同じ私の手!」
私はそう叫ぶと、大きなあくびをした。
「いやあ、私は今まで眠っていたのですか?
はっきりと目覚めました、先生!」
この瞬間に私は過去、未来といった
時間のイルージョンから完全に脱出できたのである。
おこがましいかもしれないが、
完全に覚醒する自分を体験していた。
その瞬間に一時的に喪失していた今生の記憶が蘇ったばかりではなく、
今から思えば前世とも思える記憶が、
パッ、パッとまるでカメラのシャッターを下ろすように
すばやく何シーンか頭の中に現れるのを経験した。
何ともたとえようのないすっきりとしたあの時の感覚は、
その後も一生忘れられるものではなかった。
私の人生の最高の経験となった。
アルフレードの小さな部屋の時計に目をやると
夜中の2時をまわっていた。
夕暮れからその時までじっと座っていた自分に気づいた。
「その世界を保ちながら、そっと立ってごらん」
と彼は言った。
私たちはゆっくりと歩きながら、
ハイドパークを抜けてケンシントンにある私のアパートまで、
二時間ほど無言で歩き続けた。
私のアパートの前までやって来ると、
「この世界は今までの世界とちがって、
外と内なる世界が完璧なバランスで保たれているんだ。
今までずっとそこにあったのだけど、
君は今日その入口を見つけた。
君が見つけたんだよ。夕日の力を借りてね」
彼はそういってから帰っていった。
アルフレードから教わったことは、
私にとってこれがほんの入り口にすぎず、
ロンドンで私は魔術師アルフレードの元で
さまざまな魔法をその時から学ぶことになった。

2014年07月31日
チャネリングする私
私自身がプレアデスの存在たちからのメッセージをチャネリングするようになったのは、1997年頃のことでした。
カナダに移住した1989年から当時住んでいたブリティッシュコロンビア州ビクトリアの空に頻繁にUFOを目撃したり、不思議な遭遇をするようになりました。夜眠っている間も明晰夢を通して宇宙人とのコンタクトを数多く経験しました。
たしか1995年だったと記憶していますが、プレアデス星人をチャネルするバーバラ・マーシニアックさんとの出会いがあり、そこで彼女のチャネリングセッションを通して、プレアデス星人との出会いが近々訪れるという、おどろきのメッセージをいただきました。
その後まもなく私のところにシャリという名前の人間の体にウォークインしたと自らを名乗る宇宙人が訪ねてきたのです。信じがたい出来事でしたが、シャリと親しくなるにつれて、彼女が人間ではなくて宇宙人だということにだんだん気づくようになりました。彼女からプレアデス星人について、宇宙について、UFOについてなどさまざまな不思議なことを教えてもらいました。なんといってもアカシック次元について彼女から教わったことが今になって素晴らしい学びであったことに私は気づいています。
バーバラとの出会いはその後も何度かあって、彼女からこの世の中の仕組みについてたくさん教えてもらい、またある時はいっしょにチャネリングをしてメッセージを照らし合わせるようなことも経験しました。
1997年になると、バーバラ・マーシニアックがチャネリングする本を日本で出版していらっしゃった出版社の社長さんがカナダの私の自宅を訪ねてこられて、「プレアデス光の家族」を翻訳してくれないかと頼まれました。
当時の私は、カナダ人に時々集まってもらってプレアデスからのメッセージをチャネリングするようになっていました。このようなことから私のチャネリングメッセージは英語でお伝えするというふうになっていました。ですから、日本の方々へメッセージを直接お伝えすることはなかったというか、当時は考えてもいませんでした。今になってどうして日本語でチャネリングできないのか、歯がゆくなることもありますが、チャネリング回路が英語でしか開いていないのです。
文章をとおしてなら、日本語でチャネリングメッセージがおりてくることがあります。「イナンナが語るアヌ一族の物語」は、プレアデスの存在たちが後押ししてくれて、アヌ一族に関するたくさんの情報が組み込まれています。もちろん、いくつかの古代文献をベースとして書いているうちに、チャネリング情報が先に出てきて、あとから文献を確認するというような面白い現象も執筆中にたくさん経験しました。
振り返ってみると、こういったプレアデスに関する一連の出来事が、すべて今日の私につながっていることに最近気づくようになりました。
私がチャネリングするときは、自分自身をプレアデスの存在たちにレンタルするような具合になります。まるで駐車場のように一時的に私の体にパーキングしてもらうのです。そして、私は少し横から彼らが入った自分をボーっと見ているような感じです。
先日面白い写真をある方から送ってもらいました。チャネリングする私のDVDを写真に撮られたのですが、もう一人の私が写っているのです。最初は疑いましたが、撮影しているときはカメラの一方向が決まっているので、何とも不思議な写真です。自分の体から少しずれた私の位置がぴったりしているので、これは面白い写真なのでご覧になっていただきたいと思います。
カナダに移住した1989年から当時住んでいたブリティッシュコロンビア州ビクトリアの空に頻繁にUFOを目撃したり、不思議な遭遇をするようになりました。夜眠っている間も明晰夢を通して宇宙人とのコンタクトを数多く経験しました。
たしか1995年だったと記憶していますが、プレアデス星人をチャネルするバーバラ・マーシニアックさんとの出会いがあり、そこで彼女のチャネリングセッションを通して、プレアデス星人との出会いが近々訪れるという、おどろきのメッセージをいただきました。
その後まもなく私のところにシャリという名前の人間の体にウォークインしたと自らを名乗る宇宙人が訪ねてきたのです。信じがたい出来事でしたが、シャリと親しくなるにつれて、彼女が人間ではなくて宇宙人だということにだんだん気づくようになりました。彼女からプレアデス星人について、宇宙について、UFOについてなどさまざまな不思議なことを教えてもらいました。なんといってもアカシック次元について彼女から教わったことが今になって素晴らしい学びであったことに私は気づいています。
バーバラとの出会いはその後も何度かあって、彼女からこの世の中の仕組みについてたくさん教えてもらい、またある時はいっしょにチャネリングをしてメッセージを照らし合わせるようなことも経験しました。
1997年になると、バーバラ・マーシニアックがチャネリングする本を日本で出版していらっしゃった出版社の社長さんがカナダの私の自宅を訪ねてこられて、「プレアデス光の家族」を翻訳してくれないかと頼まれました。
当時の私は、カナダ人に時々集まってもらってプレアデスからのメッセージをチャネリングするようになっていました。このようなことから私のチャネリングメッセージは英語でお伝えするというふうになっていました。ですから、日本の方々へメッセージを直接お伝えすることはなかったというか、当時は考えてもいませんでした。今になってどうして日本語でチャネリングできないのか、歯がゆくなることもありますが、チャネリング回路が英語でしか開いていないのです。
文章をとおしてなら、日本語でチャネリングメッセージがおりてくることがあります。「イナンナが語るアヌ一族の物語」は、プレアデスの存在たちが後押ししてくれて、アヌ一族に関するたくさんの情報が組み込まれています。もちろん、いくつかの古代文献をベースとして書いているうちに、チャネリング情報が先に出てきて、あとから文献を確認するというような面白い現象も執筆中にたくさん経験しました。
振り返ってみると、こういったプレアデスに関する一連の出来事が、すべて今日の私につながっていることに最近気づくようになりました。
私がチャネリングするときは、自分自身をプレアデスの存在たちにレンタルするような具合になります。まるで駐車場のように一時的に私の体にパーキングしてもらうのです。そして、私は少し横から彼らが入った自分をボーっと見ているような感じです。
先日面白い写真をある方から送ってもらいました。チャネリングする私のDVDを写真に撮られたのですが、もう一人の私が写っているのです。最初は疑いましたが、撮影しているときはカメラの一方向が決まっているので、何とも不思議な写真です。自分の体から少しずれた私の位置がぴったりしているので、これは面白い写真なのでご覧になっていただきたいと思います。
