2007年06月10日
大工の娘
今朝、自分の家を一生懸命、建てている娘の写真が送られてきました。
しんどいけれど、おもしろそう。
自分の住む家は自分で創りたいと思うのは、健康な若者の姿だと喜んでいます。
今年になって「仕事」というものについて真剣に考えてみました。
するとどんどん変化していく感じがします。自分自身も含めて、周りの人たちも変わってきています。
私は昨年まで続いた翻訳中心の仕事から一息というところです。もうある意味で体が受けつけない感じがしました。コンピュータの前に張りついて一日が過ぎるのは、ちょっと違うんじゃないか、って感じるようになったからです。その結果、ブログを書くことも減ってきました。
今しかない仕事、それは多くの人々と出会うこと・・・そう思うんです。
インターネットを通してだけではなく、実際にいろんな人々と関わりをもつことが大切だと気づきました。お互いを理解し、肌で感じ、目を見つめながら語らい、アンマのような素直さで人をハグでできる自分になりたい。
これが私のワークと今、なっています。
だれともハグできる生き方?!
変化を求めても、実際に自分が行動しないと変化は頭の中だけでしか起きません。自分が一番苦手とすること・・・それは私の場合、シャイさ、面倒くささ、どうでもよいと思ってる etc.
すべてを取り除く必要があるんです。
自分が愛する人と同じようにみんなと接することができるのか?
それとも気づかぬうちにエゴに押し流されて付き合うか、離れるか?
関わろうと努力できるか、どうかを試す道場です。
それを生きることと一つ、仕事として一つ。
これを今生でやり遂げなければ、
死んでから自分はきっと後悔するんじゃないかって、
ますます感じるようになってきました。
このようにすべてを捉えるようになると・・・
仕事は家事だってすべて同じような心づかいでやること。
これだけを考えて生きていけば、お金のことを特別考えなくても、
宇宙が援助してくれるので、十分仕事として成り立っていくように、今の波動は設定されているような気がします。
そしてその仕事がどこまで成長するかは、
きっとすべて自分の気持ちの結果としてあらわれるんでしょう。
あたりまえのことのようですが、頭でわかっていてもなかなか大変。
そんなことで、私の今年の仕事としてのチャレンジは、
あまりコンピュータの前で、自分ひとりの世界で夢中になりすぎないことです。
これはまさにサイキックマスタベーションにすぎない。
カメレオンのように機械に張りついて長時間過ごさない!
これが今年の私です。
2007年03月20日
WHOLE LIFE EXPO ‘93
1993年のちょうど今ごろシアトルで行なわれたWHOLE LIFE EXPOにいってみた。
そのときのゲストスピーカとして
ホピの予言のトーマス・バンヤッケが来たのを覚えている。
日本人の私だったから熱い握手とハグを交わしてくれたのだろうか。
あのとき元気なネイティブの長老だったバンヤッケは、
1999年2月に90歳で他界したが、
最後まで彼はホピ族のメッセージを世界に伝え続けた
息が切れるまでやりとおしたメッセンジャーだった
その「ホピ族の予言」がまた、
シンクロ的な運びでよく最近、耳にするようになってきた
なぜ、今、またホピの予言などか?
私なりにdecode してみるのに、
「日本人が知らない恐るべき真実」というブログにあったので
前半の内容を引用して、
気になることばに大文字をいれてみた
ホピ族の予言また、アメリカの中西部、グランド・キャニオンの近くに、ホピ族という原住民がいる。そこは、原爆の原料となるウラニウムの採掘場の近くでもある。彼らには、太古より、グレートスピリッツ、つまり偉大な精霊から授かった予言がある。その中には、「灰のつまったひょうたん」という表現で、広島・長崎に原爆が投下されることを予言していた。今、メッセンジャーとしての使命を受けたトーマス・バンヤッケはこう告げる。
――トーマス・バンヤッケ「この円は大地との調和を意味し、聖なる意味を持っている。昔、白い兄弟にもこの同じシンボルと警告が与えられていた。だが、彼らはこの土地に帰ってきた時には別のシンボルに替えているだろう。十字架のシンボルを持ち込むだろう。その時には偉大なる精霊の法、つまり、自然の法に従わず、彼らのやり方を強制し、石油、ウラン、ガスなどを取り出すだろうと予言されていたのだ。
つまり、予言の中で、だれかが「灰のつまったヒョウタン」を発明する、それが地上に投下されれば、全てが一瞬にして灰になるだろう、そう予言の中で警告されていたことが日本の広島と長崎に起こったからだ。そのために1948年、ホピの指導者たちは集まり、予言について語りあったのだ。その時、長老たちは、それが予言の通りであることを知り、はじめて、世界中の人々に、今我々は危険な時代にいるということを伝えることにしたのだ。彼らの進むにまかせたら世界は再び破壊されてしまうだろう。偉大なる精霊から警告されていたことは、そのまま、広島、長崎で起こったことだった。すべてが焼き尽くされるだろう。人々も土地も生物も、激しい熱のために死に、多くの病気が何年にもわたって発生し、薬も医者も何の役にも立たず、放射能は遠くまで広がるだろう。我々の長老がホピの言葉でそのことを知っていたのは驚くべきことだった・・・
2007年02月22日
ドリームキャッチャー
このブログで私はずいぶん、助けられている。実をいうと、幼いころから私はウツ的な傾向に悩んできた人間なんです。そもそもの原因はあまりよく分からないのですけれど、記憶を辿っていけば、まずは以前ブログでも書いたように、腸チフスの予防接種に幼児の頃に犯されてケミカル治療や、戦後生まれた子供によくあった結核菌のプラス反応を最初からもって生まれてきたため、病院で何回も注射をされ、あげくの果て小学校に入る頃には自律神経障害のための薬づけでした。ひょっとしたら、それこそインディゴの本で子供にとって害となるリタリンやサイラートが入っていたんじゃないかと思う。それを飲みだしたころから、カンシャクは起こさない子供に変わっていたと思います。
どんなことがカンシャクとなって母親に小さい頃から当たっていたかといいますと、ようするに、『この世に自分がなぜ生まれてきたかわからない・・・説明しろよ』というような態度で母を困らしていたと思います。その影で決して父という人を許せない自分がいたのです。最初からそう設定されていたんです。それで、かなり感情的にぐちゃぐちゃだった私は、ケミカル世代に最初に送り込まれたインディゴ一号タイプの人間じゃないか、なんて思うのです。
そういったケミカルの影響をあまり受けなくなった中学生ころから私は、健康には問題なく、よく太り、非常にムーディで、気まぐれで、不満が多くて、先生も歯が立たない理屈っぽいティーンエイジジャーを表面的に装っている人間と成長していきました。そのうちパターンとしてこころのダウン状態が繰り返すような状態に操られるようになりました。
結婚して、子供を産むと、こういった基本的に自己中心的な傾向は減って、どうにか、ここまで生きながらえてきて、いまではそんな傾向とは無縁であると思っていましたが、でもこの冬のすべてが凍りつく寒さの中で、そうでもないよと試されるようなことがいっぱいおきました。腹が立ったり、「なんでなの?」と、問い質したくなるような自分との戦いでした。それらはすべて自分の夢と関係していることを通して起きたのです。
ウツ的な、つまりネガティブ思考に操られていると、自分自身も感心するほど傲慢になっているのです。これこそ、ウツ的な傾向の始まりなんだと、つらいけど認識できると、またスムーズに現実は展開しだす。ネガティブとは無縁だと思っていて、お金もたくさん投資してここまで学んできたのに、なぜ振り出しにもどるような経験をするのだろう? 時間は加速しているので、自分が成長できないでいる部分に当てられるスポットライトの光は今、まばゆいほど強くなってきている。
でも、季節も影響している。冬にはいままでよくこんな感じになる。病名すらあるみたいです。でもこうしてブログを書いて、自分自身を正直にお伝えすると、きっと「そうだ、あなたも同じなんですねえ」と応えてくれる人がいるのはとても助けとなります。一緒にお互いの肩をたたける仲間がたくさんいてくれることに今日はとても感謝しています。
そんな気持ちでいると、今朝、すごいメールが入りました。 バーバラ・マーシニアックからでした!
やっと彼女とつながった! うれしいです。
Hello Sonia and John,
Thank you so much for your very kind letter! I enjoyed hearing about what you've been up to.
And, thank you for re-translating Family of Light. I'm sure you had a deep and enlightening time doing it.
The P's words and ideas certainly have a way of changing over time regarding their meaning.
という内容で始まるメールをいただきました。
すべてがつじつまがあうようになる前に、
生きることのさまざまなレッスンがあり、
それぞれの学びの中に一つずつ扉は開いていく。
その鍵は各々の中にあり、ただそれをふさぎこんでいる、
ネガティブ思考を削除していけば、おのずと雲は消え、
晴天のへきれきのような空の向こうから黄金の玉をつかんだ龍が現れる。
プレアデスのエネルギーにやっとつながった!
この今朝のような喜びに出会うために、
人生は今、私にいろんなことを同時にたくさん見せてくれているんだなあ、と思いました。
ウツ的なくもの巣のような自分のパターンを完全に超え切るために、
なんと何気ない、自分の些細な気持ちの中にウツ的傾向にすでに向かおうとしている自分の態度がたくさんあることに、私は今、いままでになく気づいています。
そういった傾向を先に意識的にキャッチすれば、どうにかその傾向に引っ掛からないでスムーズにことが運ぶような気がします。
Stickyな巣に足を突っ込まずにやっていくためには認識しかない。
だけど、自分自身はまったくそんなネガティブな傾向はないと、ふだんはつい、否定してしまいやすいです。だからなかなか、蜘蛛の巣がはってあるとは気づかないんですよね。
そんなこんなで、自分の中で今やっと新春を迎えたという感じがいましています。
すると今年の目標がなんとなく定まってきているのではないかと、今感じています。
その目標は今のところナイショ!
窓際にカナダで買ってきたドリームキャッチャーをつるして、
自分の夢を鮮明に大きく広げさせるために、
思い込みや余計なStickyなものをひっかけて通さないようにしてくれるように、
ドリームキャッチャーにお願いしました。
私って、みんなとっくにやっていることがやっていなかったりするんですよね。
さて、このドリームキャッチャーに効果はあるでしょうか?
これにしても、タロットやクリスタルなどほかのスピリチュアルツールと同じで、
オーナー次第で、強力にも、無意味にもなるでしょう。
2006年07月31日
サイケデリック初体験
なぜかわたしのサイケデリック体験は6才のときから始まった・・・これが本当のところです。「ええ、ウソ?」っておっしゃるかもしれませんが、本当なのです。それでまた、あんなすごい幻覚はまあ、一生みさせてはもらえないだろう、といえるほどすごかったのです。
ことの始まりは、幼稚園での「予防接種」が原因でした。昼間、幼稚園で腸チフスの予防注射を受けて、家に戻ってきた私は仲間と一生に元気よくいつものように外で遊んでいました。その時、向かい側の家に住んでいたタミちゃんが駄菓子屋にいこうといいだしました。当時初めってインスタント食品が出回り始めたところでした。チキンラーメンなどお店にいくと買えるようになったばかりの時代でした。
私は虚弱体質だったので、絶対にそんなものは買ってはいけないと母から止められていました。近所の子供たちと手のひらに5円玉を握り、スキップして町のはずれにあった駄菓子屋まで駆けつけました。そこでお向かいに住んでいたタミちゃんがみんなに得意そうに勧めたのは、今発売されたばかりの「おしるこのもと」でした。5円で買える一袋を私は家に持って帰ると、こっそりとお湯を沸かして、一服を味わったのです。そしてまた、外で待っていたみんなと一緒にいつもどおり遊んでいたのです。そのころは、子供たちは今日のような怖いお外ではなく、日が暮れて、「カラスが鳴くからカーえろ・・・」とみんなで歌うまでは、真っ暗になるぎりぎりまで外で遊んだものです。
ともかくその日の私は夜7時半ごろになって、ひどい吐き気と下痢、熱で倒れてしまいました。「ママ、ごめん、おしるこ買って、タミちゃんと食べたよお・・・お腹いたーい」ととうとうばれてしまいました。夜9時ごろには布団がしいてあった前の白いふすまをスクリーンが代わりにして、私は大きく目を見開いて座り込んだ状態となっていました。次々と流れる映像にとっぷりとはまり込んで動けなくなっていたのです。「ママ、助けて・・・ラッシーが底なし沼にはまってる!」、「ママが助けてくれないから、リンチンチンがむこうからやってきたよー」、「こんどは大変、ママあ、ふたりとも底なし沼にしずんでいくよー、どうにかして、ママ」と、こんなふうに叫んでいたのが記憶にあります。テレビより大きいふすま2枚全体に、確かカラーで映っていたように思います、白黒の時代なのに・・・。
結果として私は父の車で大阪市内の大きな病院に運ばれ、もう少しで伝染病患者として隔離されてしまうのを、どうにか母の計らいで逃れ、病院のベッドで意識を取り戻したのは一週間ほど後でした。それから私はどんどん回復していったのですが、まだ時々現われる高熱と幻覚がとれずに、そのまま病院で一ヶ月ほど経ちました。あの時、始めて私は若いお姉さんの看護婦の方からお絵かきを教えてもらったり、病院の黄色いあまり紙をふんだんに使って一ヶ月をエンジョイしたりできたのを思い出します。
でも帰宅してからも高熱と幻覚は随分続き、こんな幻覚の一コマもありました。ふとんの中で水袋を頭にのせられて仰向きになってうなずいてる私を心配した母は、お隣のおばちゃんと一緒に玄関を上がってくる会話が聞こえてきました。「どうしよう、まだあんな状態なのよ・・・」、「ちょっと、あがらしもらって、いい?」・・・このように聞こえてくる声は確かに母ととなりのおばさんなのです。しかしふすまを開けると、なんと赤鬼と青鬼ではないですか! 「きゃあ、それ以上近寄るな、あっちへいけ、助けて!」という、幼い私にとって恐ろしさ極まりない次元の扉を開いてしまったのです。
私にとって予防注射はあれ以来、とても恐ろしい経験となり、エハンが鍼灸を勉強しているときもお灸の実験台は喜んでなりましたが、針となると私はあれ以来飛び上がり、反応します。大変だったのは三人の子供の予防接種記録です。私たちのように国外に住んだり、子供たちを転校させたりするときには、この記録なしでは学校に入れないこともあるのです。なるべくなら予防接種させずに済ませたいとあれこれ、子育てで工夫したことは確かです。
私のように幼くして経験するバッドトリップだってあり得るのです。それも政府のおかげで子供がおかしくなることもあるのです。それは私のように一生続くこともあるのです。(笑)
誰もこれに関して責める気持ちはありません。私はこの経験をする運命にあり、それも自分で選択したことにはちがいないのです。でも、なぜ、それは地獄も闇あり、鬼だったのでしょう。鬼も異次元にしっかりと住んでいて、決して人間の想像だけの世界ではないということを知るためだからです。しかし、よりもよってなぜ、私は母を鬼としてみたか・・・それは戦争時代に病院で看護婦として過ごした母が、お医者さんを神さまのように崇拝する彼女の信条に幼いながらも不信感を抱いた感情が現れて、その幻覚を引き起こしたと思います。
しかしこの時から私は、なんだ、かんだとい難しい病名をつけられ、病院通いするようになり、結果は小学校の三分の一は休んでいたのです。熱が出たり、食事が出来なかったり、ぐずぐず泣いてばかりだったり、スッキリしない状態が繰り返し訪れるようになりました。小学校一年生の時に「自律神経失調症」などと、わけの分からない診断を病院でもらって、何かこれもまた、分からない薬をもらって帰ったのです。すると母は毎日3回それを私に飲ませようと必死になったのです。今から考えると、ようするに子供ノイローゼとして診断されていたわけですから、何か精神を落ち着けさせるものではなかったのか? ひょっとしたらそれによって躁鬱のパターンが強調されたのか? このようなことを過去を振り返って思います。そのパターンは私が大人になってからもまだ続いていました。一番、苦労したのは、エハンです。でも本当に彼のおかげです。ご存知のとおり、きわめて楽観的なエハンの性格ですから本当に癒されました。
いつの間にか、欝パターンはなくなっていたのですが、私自身も大変努力しました。ヨガや生食など健康のバランスを失わないようにやってきました。でもあの時に処方されたのは一体、何の薬だったのでしょうか。「インディゴ・チルドレン」の本にも子供の精神安定剤であるリタリンとサイラートの恐ろしさが書いてありました。
何年か前のPたちのセッションでも、予防注射には謎のインプラントが同時に体の中に注入される・・・という言葉を思い出します。小さなお子さんをもっておられる親の方々にぜひ、勉強してもらいたいと思います。親が子供たちのために正しく判断できる世の中になるためには、こういったことも含めて親の常識を変えていくべきだと思います。実験台となった自分がいるからこれもいえるのでしょう。あの時のサイケデリック体験で得た大切な宝物もこれからきっと思い出すことができるでしょう。
マーサ作 2006年06月21日
P’s
P’sたち(プレアデス星人)が私にある旅に出ることを、つい最近、勧めたのです。P’sたちって誰? 彼らはある特定のエネルギーをもつ存在たちで、1992年に私たちの始めての本、「マージング・ポイント」を書いている頃から、いえ、もっと前からかもしれないですが、自分たちはプレアデスのエネルギー体であるといって、私のリアリティーに突然、ノックをするように、入ってきてもよいかと了解をを求めるように彼らは私の現実に少しずつ入ってきました。この不思議体験は最初はエハンと一緒にしてなかったのです。エハンはその頃、日本にいましたから、彼にはまた別のコンタクトが始まっていたようです。でも私の場合は夢を通して、彼らが侵入してきたのです。
その頃、私たちのベッドがすっぽり入ってしまうダブル正四面体を銅のパイプで私は組み立て、大きなクリスタルを真ん中につらさがっているものを、私は遊び心に製作してみたのです。どんな効果があるか、楽しみでした。まあ、言えば大きなドリームキャッチャーのようなものですね。西カナダのガルフ諸島の海が窓から大きく広がって見える私たちの寝室はそんなことをしなくでも十分、海からのエネルギーが伝わってきて不思議な夢をよく見る場所でした・・・特にオルカの夢は。オルカは実際に望遠鏡でも夏から秋にかけて時々、見ることができたのです。ブリティッシュ・コロンビア州やシアトル近辺に住んでいる人々にとってオルカは身近な存在で、オルカウォッチングも自然にできるところなのです。
ビクトリアに住むことになったのも、そもそも日本を離れる前に見た夢がきっかけなのですが、昔の北米インディアンの女性たちが私たちを招いてくれている夢でした。ですからカナダで生活するようになって早々、出会ったのがビクトリアに住むオジブエ族やクリー族のエルダーたちで、スウェットなどのセレモニーに参加するようになったのです。そういった原住民たちのオルカに関する伝説もたくさんあり、オルカのしぶきが自分の体にかかるとラッキーだという言い伝えもあります。イルカと泳ぐようになってから、オルカとのコンタクトが一層、深いレベルで始まったことは確かです。そんな頃、ある晩、その巨大ピラミッドのベッドの上で、ルシッド・ドリームをみました。大きなマンモスが海を列になって前の海を渡っている光景がはじめに出てきて、そらからマンモスは次第にオルカに変わっていき、その中の1頭が私を海底に連れて行ったのです。次の瞬間に私はSHIPの中にいました。そして顔の幅がひろくて、大きな目をした存在が目の前で私を覗き込んだのです。
コワイと思った瞬間に私は目覚めたのです。それから様々な存在たちが夢で私に訪れました。窓際にまるでハンプティー・ダンプティーのように腰をかけ、ひたすらジョークをいいあう緑色をした巨大カエルまで出てきたのにはびっくりしました。うるさいばかりか、最後には私の寝姿を笑っている、イヤーなやつらでした。ますます腹が立っていく私に、“HAVE A SENSE OF HUMOUR” というと、まるでジニーのようにその二匹は消えました。その頃、私は結構、感情的なストレスの多い日々を過ごしていて、どうにかそこから抜け出られるように祈っていたのですが、まさかこんな形で彼らが近づいてきていたとは、今になってやっと不思議体験の数々がつじつまがあってきたのです。でも全部が全部というわけではありませんが・・・ ストレス気味の私は、自分なんてどうせ何を考えてもたいしたことはないのだから、『ネガティブでないかぎり、どうかお入りください。お貸しします。愛知ソニアというパーキング場を・・・つまらないものですから一時間100円などとはいいません』と心の中でつぶやいたのです。
そうするとどうでしょうか。遠慮なく彼らは入ってきました。そして空もサインでいっぱいにしたり、私に、いやこの時点ではエハンも一緒にありとあらゆるパズルやシンボルを公案のように投げかけてきたのです。そして一連のシンクロの働きによってP’sたちの存在を私は知ったのです。彼らが最初に私に教えたのは、いわゆるアカシックレコードの読み方でした。今になってなぜ、アカシックの見方が基本なのか、少しわかってきたような気がします。アカシックレコードについては、又の機会に私が知っていることをお話しましょう。
イルカは私たちが失った回路をつないでくれるようなギフトをくれる生き物ですが、イルカと比べてオルカはもっと深い層の脳に私たちをつないでくれる感じがします。大脳皮質(レプテリアン脳)かな? その深い茂みに隠れているレプテリアンの自分に出会う旅を、もっと今、さらに奥深く入っていくようにあらゆるシンクロを通して、私に学べと進めているのです。
今はもうオルカがいる場所には住んでいませんが、異次元で会うのだからどこにいても関係ないですね。どうか、オルカさん、また道案内をしてください。でもあの、びっくりする大きな目はちょっと控えてください。準備できてませんから・・・
テレンス・マッケナがずっと前に言ったのを思い出します。
「本物のエーリアンに遭遇したら、わかる? アゴはずれ状態で声もでないよ!」
船の上で3日間の「オルカワークショップ」
すごい数のオルカが集まってきました
オルカの研究で世界的に知られているスポング博士を訪ねて
2006年05月21日
あの時代の思い出

バーバラ・マ-シニアックがチャネルするプレアデス星人たちは、私たちが自分の過去について語る時は、いつも同じ話をするのではなく、するたびに変わっていないと意味がないといったのを覚えています。今日は自分の過去をちょっと振り返ってみる気分です。どんなアングルが飛び出すか、私にもお話を始めるまでわかりません。
1986年頃、ちょうど私たちは神戸の芦屋に住んでいました。長年住んだ京都を離れ、神戸に住んだ理由は子供たちを国際学校に通わせるためでした。エハンは当時、3人の子供たちのめんどうをよくみるパパだったのです。その頃、エハンは大学の講師をしながら、神戸のトアロードでクリニックを開業し、鍼灸師としてもがんばった時代です。エハンは当時12年間もまったく帰国せずに日本にとことんハマッていました。
この頃の日本での生活を振り返ってみると、いろいろ見えてきます。働き、子育てする以外に何があったでしょうか? 「何に夢中になって捜し求めていたか? あの頃は」とあなたもぜひ、ご自分の過去のある時期を振り返ってみてください。新しい発見があるかもしれませんよ。
私たちはあの頃、禅に夢中でした。いえ、ある意味でその時代のファッションだったのかもしれません。1974、5年から京都に私たちは住み始めました。その頃、京都では外人たちによるあるブームが起きていました。いろんな日本文化を学ぶために京都に住み着くようになった外人がその頃から増えだした時代です。中でも禅は多くの外人たちが学び、魅了される誇り高き日本の伝統でした。
エハンと出会う前に一度イギリスから帰国した私は南画家の直原玉青先生の元で学ぶことになりました。私がイギリスの学校を離れる前に作った作品は和紙で綴じられた一冊の本でした。その本のタイトルは、「タオの風景画集」というもので、マーブル技法を使って出来た偶然のパターンを、切り抜いて自然の風景に見立てた絵が左のページに貼ってあり、右には左の絵のタイトルとそれに合わせた短いポエムが載っている本です。
もう何も自分の手を加える必要はない、すべて自然に任せて、自分が作れば必ず、少しでも自分的なものが出ることを、なぜか、私は恐れていたのです。ヘドがでそうになっていた時期でした。今から思えば・・・それが禅的なものへの憧れとなっていきました。
私が三年間のイギリスでの最終的な学びは、自分でも驚いてしまうのですが、モネでも、ゴッホでもなく、ダヴィンチでもなかったのです。あの頃、私はダダやポップアートも好きでした。ヨーコ・オノの前衛的な表現もすごく好きでした。さて、その頃、一番、最後に私が学校で作った作品は、先生たちに反感をかう結果となりました。
私はただ、空に向けた絵のない額縁を教室の窓際に立てかけたものを作品として提示したのです。
それを先生に見てもらおうと平気でするぐらい、今から考えると恥ずかしくなるほど、私はとても生意気な生徒でした。しかし、最後に美術史の授業で見せられた一枚のスライドが、私には決定的な方向を示してくれることになったのです。そしてたちまち大きな変化が私の人生に訪れました。
そのスライドは京都「竜安寺石庭」でした。批判的な表現の世界から、只、そこにあるという美しさを私は発見したのです。私が求めていたものはまさにそれであって、西洋的なものではなかったのです。何も世界を一周することもなかったのです。皮肉なもので、わざわざイギリスまで行かなくてもよかったのです。でも17才から数年間のヨーロッパ生活は、今からするとバラバラですが、非常に大切なピースをいっぱい発見した私にとって貴重な時代だったといえます。最初から日本いたなら、禅に自分が魅せられることもなかったと思います。私の場合、外人から日本を教えてもらうことが昔から多いでした。
さて、遠く離れた異国で竜安寺の石庭がガーンと目の前に広がった時、これは今でも忘れられないシンクロの計らいだったように思います。京都なんて思ってもいないほど近くに自分が探し求める世界があったわけです。
私たちは京都時代からミスティックなことに非常に引かれながら今日まで暮らしてきました。でもあの悟りを求める当時の意欲はいつ、どこで消えてしまったのでしょうか。まだ、心の隅のどこかにあるような気もしますが、エハンと一緒にそのように京都や芦屋に住んだ14年間がほぼ終わろうとしていた頃、あるアメリカ人の友人から私たちにビデオが送られてきたのです。
一つはシャーリー・マックレーンの「アウト・オン・ア・リム」で、もう一つは、ラムサのチャネリング・セッションでした。
宇宙人!?
チャネリング!?
異次元のマスター!?
禅でカチコチになっていた二人の頭はハンマーでカーンと殴れたようでした。あれからエハン家にはまた変化の嵐が訪れ、カナダまで私たちを運んでいったのです。


